自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

開目抄について(13)-三度の仏勅と六難九易

日蓮は自身が法華経の行者では無いのか、さらに自問を進めていきます。

「疑て云く当世の念仏宗禅宗等をば何なる智眼をもって法華経の敵人一切衆生の悪知識とはしるべきや、答えて云く私の言を出すべからず経釈の明鏡を出して謗法の醜面をうかべ其の失をみせしめん生盲は力をよばず、法華経の第四宝塔品に云く「爾の時に多宝仏宝塔の中に於て半座を分ち釈迦牟尼仏に与う、爾の時に大衆二如来の七宝の塔の中の師子の座の上に在して結跏趺坐し給うを見たてまつる、大音声を以て普く四衆に告げ給わく、誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん、今正しく是れ時なり、如来久しからずして当に涅槃に入るべし、仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す」等云云、第一の勅宣なり。」

ここではまず、この当時の念仏者や禅宗などを法華経の敵であり、全ての人達にとっては悪知識であると何故知る事が出来るのか、という問いに対して、それはあくまでも経典に拠ると言い、まずは法華経見宝塔品第十二にある仏の滅後に法華経を誰が説くのか、という釈迦からの投げかけがあった事を示し、これを「第一の勅宣」と日蓮は呼んでいます。

「「爾の時に世尊重ねて此の義を宣べんと欲して偈を説いて言く、聖主世尊久しく滅度し給うと雖も宝塔の中に在して尚法の為に来り給えり、諸人云何ぞ勤めて法に為わざらん、又我が分身の無量の諸仏恒沙等の如く来れる法を聴かんと欲す各妙なる土及び弟子衆天人竜神諸の供養の事を捨てて法をして久しく住せしめんが故に此に来至し給えり、譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し、是の方便を以て法をして久しく住せしむ、諸の大衆に告ぐ我が滅度の後誰か能く此の経を護持し読誦せん今仏前に於て自ら誓言を説け」、第二の鳳詔なり。」

次の同じく見宝塔品の中で、第一の勅宣について偈(賛歌)という形式ですが、釈迦は同じ事を呼び掛けています。これを「第二の勅宣」と呼びました。

「「多宝如来および我が身集むる所の化仏当に此の意を知るべし、諸の善男子各諦かに思惟せよ此れは為れ難き事なり、宜しく大願を発こすべし、諸余の経典数恒沙の如し此等を説くと雖も未だ為れ難しとするに足らず、若し須弥を接つて他方無数の仏土に擲げ置かんも亦未だ為れ難しとせず、若し仏滅後悪世の中に於て能く此の経を説かん是則ち為れ難し、仮使劫焼に乾れたる草を担い負うて中に入つて焼けざらんも亦未だ為れ難しとせず、我が滅度の後に若し此の経を持ちて一人の為にも説かん是則ち為れ難し、諸の善男子我が滅後に於て誰か能く此の経を護持し読誦せん、今仏前に於て自ら誓言を説け」等云云、第三の諌勅なり」

そして続けて見宝塔品の中で、六難九易という、これは釈迦滅後に法華経を説く事が如何に困難であるかを示す例え話ですが、それを挙げて後、誰が滅後に法華経を広めていくのか、仏前で請願せよと説かれています。これを「第三の勅宣」と呼びました。また「第四第五の二箇の諌暁提婆品にあり」法華経の第四巻と五巻にも滅後の法華経の弘教を求めていると明かし、それは後に説明すると言います。

「此の経文の心は眼前なり青天に大日輪の懸がごとし白面に黶のあるににたり、而れども生盲の者と邪眼の者と一眼のものと各謂自師の者辺執家の者はみがたし万難をすてて道心あらん者にしるしとどめてみせん」

この様に法華経の経典の中を見れば、釈迦滅後に法華経を行じ広めなくてはいけない事は明らかな事であり、もし道心ある人がいるならば、法華経を行じ広めなくてはいけない事は明白ではないか。しかし「日本国に此の法顕るること二度なり伝教大師日蓮となりとしれり」と、日本では法華経を行じ広めた者は伝教大師日蓮の二人しか居ないでは無いかと述べるのです。

「問うて云く華厳経方等経般若経深密経楞伽経大日経涅槃経等は九易の内か六難の内か」

そして法華経にある六難九易の説話(経を広める事の難しさ)は、法華経以外の経典にも該当するのかについて考察を勧めます。

六難九易とは具体的にどの様な内容かと言えば、六つの難しい事、これは法華経を読んだり人に書かせたり聞かせるなど、要は悪世の時代に法華経を行じ広める事は難しく、それと比較して、例えば須弥山を他の仏国土に投げ置く事や、空中を手で掴んで動きまわる事は、それよりも簡単な事だという譬喩です。これはちょっと読みでは、六難の方が簡単で、実は九易の方が不可能だと言う様な内容にも見受けられますが、考えてみれば九易の容易い事は、全て物理的な事であり、実現法を思考すれば考えられる内容とも言えますので、要は法華経を行ずる事は物理的な思考を越えた困難さ(主に内面的)があるという譬喩の話です。

ここでは華厳経の過去の論師や、真言宗の過去の論師たちは、それぞれが六難九易に該当すると言っていますが、日本の弘法大師等は、自分達宗派の依経はその範疇に入らないと言っていて、この当時の日本国内の学者たちもその域を出ない事だと指摘します。

日蓮なげいて云く上の諸人の義を左右なく非なりといはば当世の諸人面を向くべからず非に非をかさね結句は国王に讒奏して命に及ぶべし」

ここで日蓮は、こういった現在の学者たちの間違いを指摘したなら、この世の人達はその指摘内容を見向きもしないばかりが、国王に邪まに訴えられて命すら危うくなってしまうという事を述べます。つまり日蓮はこれまで但経文に拠って、これら間違いを糺そうとしましたが、それが結果として今の日蓮の立場になっているという事なのでしょう。そして仏教というのは釈迦が入滅に際しての遺言(涅槃経)にもある様に、「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」という姿勢が基本であり、どの様な大菩薩の論説であったとしても、そこに経典の裏付けが無ければ信じてはならないと言うのです。

法華経に云く「已今当」等云云、妙楽云く「縦い経有つて諸経の王と云うとも已今当説最為第一と云わず」等云云、又云く「已今当の妙茲に於て固く迷う謗法の罪苦長劫に流る」等云云、此の経釈にをどろいて一切経並に人師の疏釈を見るに狐疑の冰とけぬ」

また法華経には「已今当(過去・現在・未来)」と説かれているが、これについて妙楽大師は「たとえ経典があったとしても、已今当で第一の為に説くとは言われていない」と言っている事を述べ、この言葉で日蓮自身、この法華経に対する疑いは氷解したと言うのです。

その後、様々な経典を示して確かに各経典には「已今当説最為第一」が説かれていない事を示していきますが、ここでは割愛します。

「此等の経文を法華経の已今当六難九易に相対すれば月に星をならべ九山に須弥を合せたるににたり、しかれども華厳宗の澄観法相三論真言等の慈恩嘉祥弘法等の仏眼のごとくなる人猶此の文にまどへり、何に況や盲眼のごとくなる当世の学者等勝劣を弁うべしや」

この様に経典をひも解いて見て行けば、法華経こそが六難九易という事で考えてみると、月に星を並べ、世界にある山と須弥山を比較する様に明白な事であると述べます。しかしながら諸宗の過去の大論師たちの仏限の様に見える人たちであっても、みな迷って間違えてしまっていると言うのです。そうであれば現在の学者などは判らない事も当然かもしれないと述べるのです。

日蓮は諸経の勝劣をしること華厳の澄観三論の嘉祥法相の慈恩真言の弘法にすぐれたり、天台伝教の跡をしのぶゆへなり、彼の人人は天台伝教に帰せさせ給はずば謗法の失脱れさせ給うべしや、当世日本国に第一に富める者は日蓮なるべし命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし、大海の主となれば諸の河神皆したがう須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし。」

ここで日蓮は過去の論師よりも、日蓮こそが経典の勝劣を知る事では優れている事を明かします。そしてそれは天台大師や伝教大師の跡を継ぐ法華経への信仰を持っているからだと述べるのです。

(続く)