自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

開目抄について(14)-法華経の行者について

六難九易について前の記事で書いた部分では示し、その六難九易の経典である法華経を行じているのが日蓮自身に他ならない事を述べました。

つづけて日蓮は、法華経の行者とは今の時代で誰を指す事なのかについて言及していきます。

「宝塔品の三箇の勅宣の上に提婆品に二箇の諌暁あり、提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、涅槃経四十巻の現証は此の品にあり、善星阿闍世等の無量の五逆謗法の者の一をあげ頭をあげ万ををさめ枝をしたがふ、一切の五逆七逆謗法闡提天王如来にあらはれ了んぬ毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり」

ここで先に挙げた二箇の諌暁について説明します。これは女人成仏と悪人成仏の二つを指します。

仏教に於いて女人は過去世の宿業が深く、成仏出来ないと言われてきました。しかし法華経提婆達多品に於いて、龍王の娘である龍女が「変成男子」と言い、男子になって即身成仏を示す箇所がありますが、これを女人成仏と呼んでいて、要はそんな女性であっても成仏が叶うという事を説き明かした部分と言われています。また同じく提婆達多品では無間地獄に堕ちた提婆達多が、過去世に釈迦の師匠の阿私仙人であった事を明かし、その阿私仙人は今世で提婆達多となり、謗法の恐ろしさを身を以って釈迦に示したという事を明かして、その事から提婆達多は未来世に天王如来となる記別を与えられました。提婆達多は一闡提人と呼ばれ、仏種を焼かれて未来永劫成仏出来ないと爾前経等では言われていましたが、ここで提婆達多が記別を受ける事で、如何なる悪人であっても成仏できるという悪人成仏を示した事になったというのです。

これを二箇の諌暁と日蓮は呼んでいます。

「已上五箇の鳳詔にをどろきて勧持品の弘経あり、明鏡の経文を出して当世の禅律念仏者並びに諸檀那の謗法をしらしめん、日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて返年の二月雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくてをそろしからずみん人いかにをぢぬらむ、此れは釈迦多宝十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし。」

先の三つの勅宣と二箇の諌暁を合わせて「五箇の鳳詔」と日蓮は呼んでいますが、この鳳詔の内容を日蓮は読み驚き、法華経の勧持品で末法の弘教の事が書かれていたので、日蓮自身は経典に身を任せて、当時の仏教界に謗法を知らしめようとしたと言います。そしてその結果、日蓮という人間は龍ノ口で首を切られ、魂だけが佐渡の地へ流罪されたのであると述べたのです。

つまり日蓮自身は既に生死の先にある覚悟でいる事を明かし、その上で様々な迫害に何を恐れる事があるのか、日蓮の行動は法華経の釈迦仏や多宝仏等の諸仏の考えていた事を、この日本という国に実現しようとしているのだという事を述べるのです。

要はここで日蓮の現在の心境を、在りのまま語っています。

ちなみに日蓮正宗などでは「此れは魂魄佐土の国にいたりて」を切り取り、これこそ発迹顕本を明かした部分だと言いますが、文脈を読み取っていくと、ここはそんな大層な事を明かした部分とは思えません。

その後、本文は割愛しますが、法華経の勧持品に説かれている「三類の強敵」について経文を示して説明していきます。ここでは俗衆増上慢という仏法に疎い人たちからの迫害や、道門増上慢という仏教僧からの迫害、そして潜聖増上慢という権力者を使った迫害を述べますが、法華経を行ずるものが必ずこの三類の強敵が引き起こす難に逢う事をここで示していきます。

「夫れ鷲峯雙林の日月毘湛東春の明鏡に当世の諸宗並に国中の禅律念仏者が醜面を浮べたるに一分もくもりなし」

日蓮はこれら多くの経典を引用し、経典に説かれている様々な事に目を通し、現在の諸宗の僧侶などを思い浮かべてみると、この受難の姿について明白な事では無いかと述べ、要は日蓮以外、他の諸宗の僧侶でこの様な難を受けている人は居ないだろうと言うのです。

「当世は如来滅後二千二百余年なり大地は指ばはづるとも春は花はさかずとも三類の敵人必ず日本国にあるべし、さるにてはたれたれの人人か三類の内なるらん又誰人か法華経の行者なりとさされたるらんをぼつかなし、彼の三類の怨敵に我等入りてやあるらん又法華経の行者の内にてやあるらんをぼつかなし」

この日蓮の居た時代は既に末法に入っているので、これら諸経典等に示される三類の強敵というのは既に出現して居るのだろう、では誰が三類の強敵であり、誰が法華経の行者であるというのかと問うのです。

「されば仏付法蔵経等に記して云く「我が滅後に正法一千年が間我が正法を弘むべき人二十四人次第に相続すべし」迦葉阿難等はさてをきぬ一百年の脇比丘六百年の馬鳴七百年の竜樹菩薩等一分もたがはずすでに出で給いぬ、此の事いかんがむなしかるべき此の事相違せば一経皆相違すべし」

ここで仏付法蔵経等に説かれている釈迦滅後に法を継いできた二十四人の人々や、またこれまで様々な経典や論で予言されていた論師たちも出現したではないかと述べ、もし今の時代に三類の強敵や法華経の行者が今の時代に出現していないというのであれば、結局のところ法華経を始め、全ての経典で説かれている事が嘘になってしまうでは無いかとまで述べたのです。

(続く)