
続いて開目抄の中で日蓮は三類の強敵というものについて述べていきます。
「第一の有諸無智人と云うは経文の第二の悪世中比丘と第三の納衣の比丘の大檀那と見へたり、随つて妙楽大師は「俗衆」等云云、東春に云く「公処に向う」等云云、」
ここでまず第一の強敵とは、これは法華経の勧持品に「有諸無智人」と説かれていて、それは第二の強敵である悪世の比丘の中の人と、第三の強敵である納衣の僧侶の大旦那の人だと言います。これは第一の俗衆像上慢の事を指していて、それは道門増上慢や潜聖増上慢の周囲にいる仏教全般に疎い人たちが、正法(法華経)の強敵となる事をここでは言っています。
「第二の法華経の怨敵は経に云く「悪世中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」等云云、涅槃経に云く「是の時に当に諸の悪比丘有るべし乃至是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除せん」等云云」
次に第二の強敵とは「悪世の比丘」だと言います。これは道門増上慢の事で、ここで言う悪世の比丘とは、常に邪まな智慧を働かせ、心はおごり高ぶっていて、悟りを得ていないにも関わらず、自分は悟りを得たという考え方を持っているというのです。そして涅槃経には、この悪比丘は経典を学び読んでいたとしても、その経典にある仏の本義を滅してしまうと言うのです。
また続けて「止観に云く「若し信無きは高く聖境に推して己が智分に非ずとす、若し智無きは増上慢を起し己れ仏に均しと謂う」」と、魔訶止観にある言葉を引用し、そこには法華経に信を置かない者は、法華経はとても高い教えであり、自分の智慧が及ぶものではないと言い、その者を見た智慧なき者たちは、その増上慢な人を見て彼こそ仏に近い人だと信じてしまうというのです。この辺りは天台大師が念仏宗に対して行った指摘について述べているのです。
「道綽禅師が云く「二に理深解微なるに由る」等云云、法然云く「諸行は機に非ず時を失う」等云云、記の十に云く「恐くは人謬り解せん者初心の功徳の大なることを識らずして功を上位に推り此の初心を蔑にせん故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕す」等云云、伝教大師云く「正像稍過ぎ已て末法太はだ近きに有り法華一乗の機今正しく是其の時なり何を以て知ることを得る安楽行品に云く末世法滅の時なり」等云云、慧心の云く「日本一州円機純一なり」等云云、道綽と伝教と法然と慧心といづれ此を信ずべしや」
ここで念仏宗の道綽禅師と法然の言葉を紹介し、いずれも法華経は高尚で理解出来ない教えとか、機(時期)に合わない教えだと言うが、伝教大師は法華経は末世法滅の時が法華一乗の時と言い、慧心(天台宗の源信)は日本が法華経の機に合うと言っている事を述べて、では道綽や法然と伝教大師や慧心のどちらが信じられるのかと言うのです。これはもちろん伝教大師や慧心の言葉を信じるべきでは無いかと言うのでしょう。その上で「第二の悪世中比丘と指さるるは法然等の無戒邪見の者なり」と法然などが広めた念仏宗について経論を以って責めていきます。そして「法然並に日本国の念仏者等は法華経は末法に念仏より前に滅尽すべしと豈三聖の怨敵にあらずや。」と念仏宗の僧侶などが、第二の道門増上慢でり、仏教にとっての敵である事を述べるのです。
「第三は、法華経に云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在つて乃至白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるることを為ること六通の羅漢の如くならん」等云云」
続いて第三の強敵である潜聖増上慢について述べていきます。法華経には潜聖増上慢の姿について、静かな地にあって整えた姿をしていて聖人の様に振舞っていると説かれている事を述べ、この人は自分の地位などの為に仏法を説いていると言うのです。
「涅槃経に云く「我れ涅槃の後像法の中に当に比丘有るべし持律に似像して少かに経典を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養せん袈裟を服ると雖も猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貪嫉を懐く唖法を受けたる婆羅門等の如く実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」等云云」
次に涅槃経を引用し、この潜聖増上慢の姿は外目は僧侶の姿をして、如何にも戒律を持った姿をしてるが、飯を食うために経典を読み、その身を養うというのです。そしてこの人は常に漁師が細目で静かにゆっくり動き、その姿はネズミを狙う猫の様なもので、常に「私は悟りを得た」と言いながら、外見こそは聖人の様に振る舞い社会に善行を施している姿をしているが、心の中には常に邪見を以って正法を誹謗すると説かれているのだと述べます。そしてそれは「今末法の始には良観念阿等偽書を注して将軍家にささぐあに三類の怨敵にあらずや。」と、これはこの時代では幕府に取り入り日蓮を迫害している良観や念阿であると言うのです。
ちなみに忍性房良観は鎌倉仏教界の有力者であり、日蓮の迫害を一番に企図した人物である事が解っていますが、当時の歴史を見ると、社会的な慈善事業に積極的に取り組み、鎌倉の人達からは聖人の様に敬われていた事が解っています。
「当世の念仏者等天台法華宗の檀那の国王大臣婆羅門居士等に向つて云く「法華経は理深我等は解微法は至つて深く機は至つて浅し」等と申しうとむるは高推聖境非己智分の者にあらずや、禅宗の云く「法華経は月をさす指禅宗は月なり月をえて指なにかせん、禅は仏の心法華経は仏の言なり仏法華経等の一切経をとかせ給いて後最後に一ふさの華をもつて迦葉一人にさづく、其のしるしに仏の御袈裟を迦葉に付属し乃至付法蔵の二十八六祖までに伝う」等云云、此等の大妄語国中を誑酔せしめてとしひさし」
そしてこの当時の念仏者等は、諸宗の人々や国王やその他の様々な人たちに、法華経は理が深いが理解出来ないとか、機に合っていないと語る事は仏教の事を何も理解出来ていない事であり、禅宗が経典は月を指す指で、月が解ればその指である経典は不要であり、経典とは別に仏教を付属されたという事を述べて、国中に仏教の本義を失わせているのであると述べているのです。
(続く)