
三類の強敵について論究した後、再度ここで法華経の行者について問い直します。
「有る人云く当世の三類はほぼ有るににたり、但し法華経の行者なし汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり」
ここではある人が問う事として述べていますが、この世界には既に三類の強敵というのは存在しているのに、未だ法華経の行者と言われる人はいない。それではあなたがその法華経の行者であるというのであれば、それは経典とは大きな相違があるでは無いかという疑問を出しました。
「此の経に云く「天の諸の童子以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わざらん」又云く「若し人悪罵すれば口則閉塞す」等、又云く「現世には安穏にして後善処に生れん」等云云、又「頭破れて七分と作ること阿梨樹の枝の如くならん」又云く「亦現世に於て其の福報を得ん」等又云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出せば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん」等云云」
ここで此の経、これは法華経の中に説かれている内容ですが、例えば「法華経の行者が居た時には、諸天善神を使わして給仕をするので、刀や杖で襲われる事も無ければ、毒で害される事も出来ない」とか「現世は安穏な生活が出来て、後生は良い場所に生まれる」と説かれています。また「法華経の行者を悩ます者がいたら、頭が狂ってしまう」とも「法華経の行者を見て、その悪事を指摘した時、それが本当であれ嘘であれ、大変な病を得る」とも説かれています。しかしこれまでの日蓮の状況を見た時、これら法華経の経文とは異なるでは無いかと言うのです。
「答えて云く汝が疑い大に吉しついでに不審を晴さん、不軽品に云く「悪口罵詈」等、又云く「或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等云云、涅槃経に云く「若しは殺若しは害」等云云、法華経に云く「而かも此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し」等云云」
これに対しての日蓮の答えとして、不軽菩薩品には、不軽菩薩は悪口罵詈され、杖や木で打たれ、石を投げつけられたとある事、また涅槃経には正法を持つ者は殺害されるか迫害されるとあり、法華経には、此の法華経を持つ者は釈迦在世でも怨嫉が多いと説かれている事を述べるのです。そして釈迦も九黄の大難という迫害を受け、不軽菩薩は悪口罵詈され、釈迦の弟子である目蓮尊者も杖で打たれ殺害され、釈迦の後継者の付法蔵の十四人目の提婆菩薩や二十五人目の獅子尊者は人に殺害されましたが、それでは彼らは法華経の行者では無かったのかと反論を述べるのです。
「事の心を案ずるに前生に法華経誹謗の罪なきもの今生に法華経を行ずこれを世間の失によせ或は罪なきをあだすれば忽に現罰あるか修羅が帝釈をいる金翅鳥の阿耨池に入る等必ず返つて一時に損するがごとし」
この事について考えてみれば、過去世に法華経誹謗の罪なき者であれば、その者に仇を為す人が居れば、直ぐに現罰を受ける事があるかもしれないと述べます。
「天台云く「今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報将来に在り」等云云、心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云、不軽品に云く「其の罪畢已」等云云、不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり」
また天台大師は、現在ある苦しみは過去世の罪によるのであって、今世で受けるべき福徳は来世にあるという言葉もあり、法華経の不軽菩薩品には、その罪を終えてとあるのも過去世の謗法の罪の為に不軽菩薩は様々な迫害を受けたとも説かれている。そこから見れば、現在日蓮が受けている様々な難も全ては過去世の謗法の罪によるのかもしれないと述べます。
またこれ以降も、例えば一闡提人という、次の生では地獄に堕ちる事が決まった者には現罰は出ないともあり、この世界が一闡提人の集まった場合、日蓮を迫害しても現罰が出ないかもしれない等、様々な事を経典を以って問い直していくのです。
そしてこういった思索の先にあった日蓮の結論として、有名な言葉が述べられるのです。
「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。」
ここで諸天善神や仏菩薩の守護があるかどうか、そこはどうでも良い。身命を失っても構わない。何故なら身子(舎利弗)が過去世に六十劫という長期間にわたる修行を止めてしまい成仏の機会を失ったのは、婆羅門の乞食から責め立てられた結果であり、久遠の昔の仏弟子や太通智勝仏の弟子たちが、過去に成仏の機会を逃してしまったのも、悪知識に合った為では無いか。理由の良し悪しはあっても法華経を捨て去るのは、地獄の業を作ってしまう事になるのだ。だから法華経を捨てて念仏の経を信じて後生を祈れとか、念仏を唱えないと両親の首を刎ねるぞと脅されようとも、私の義が破られないであれば、私はそれを用いる事はしない。その様に腹をくくれば、その他の大難などは風の前の塵と同じものではないか。私は日本の柱になろう、日本の眼目となろう、日本の大船になろうと誓った事を私は破る事をしないのだと。
ここへきて、日蓮は自身が法華経の行者であるのかという思索を捨てて、自身こそが法華経の行者であろうとする決意をしている事を述べたのです。この箇所で最後に述べた「願い」というのは、日蓮が出家してからの願いであったのかもしれませんし、その願いは捨てないという決意をここで披歴したのです。
(続く)