
ここ最近、記事の更新が滞っていました。
というのも、この暑い日々で気持ちがダレている事もありますが、仕事をしている中で個人的に様々な事を抱えて日々生きていますので、なかなかブログを書く事も出来ないという状況でした。
そんな中ですが、最近ちょっと考えている事について今回は記事を書かせてもらいます。
日々様々なニュース等を見ていますが、ふと思う事は、20世紀あたりの社会の方がこの世界は解りやすかったなと言う事です。私がこの世界に生まれてから、社会人になるまでの世界というのは、今より実にこの世界は解りやすかったと思うのです。
国際的に見れば世界は二大超大国の間にあって、東側(ソビエト連邦陣営の共産主義)と西側(アメリカ陣営の資本主義)の二つでした。そして世界はこの両大国の何れかの陣営に属していたので、敵も味方も実に判りやすかったと思います。
しかし1989年11月9日に起きた「ベルリンの壁の崩壊」で、この東西冷戦という両大国の陣営による対立状況は崩壊し、世界は混沌とした状態になっていきました。

しかし一方で、当時は「資本主義陣営が勝利した」という言葉もあった様に、これからの世界は、西側の資本主義が世界のスタンダードとなり、世界は緩やかに一つの世界へとまとまるのではないかと言う様な楽観的な雰囲気もあったりしたものです。
当時、創価学会では池田氏が「法華経の智慧」を出版していた時期でもありましたが、そこではこの東西冷戦が終了した後に来る時代を「哲学の大空位時代」と呼び、世界は一つになるどころか、民族主義や宗教等によって、より細分化するのでは無いかという話しもあり、当時青年部であった私も、そういった「哲学不在の時代だからこそ」とばかりに、創価学会の活動へとのめり込んで行きました。
そして三十年以上経過した現在、世界はどうなったかと言えば、世界はテロ事件に巻き込まれながらも、気が付けば多極化の時代になってしまいました。アメリカと欧州の結びつき方も変化し、BRICSという第三極の流れも出る中で、今の世界をおおざっぱに言えば、アメリカと欧州、そして中国とロシアという緩やかな二つの勢力となっていますが、インド等のBRICSの動きも無視できない時代です。
要は昔の様に東(共産主義陣営)は西(資本主義陣営)を、西は東を向いていれば良いという世界では無くなってしまいました。
この様な状況の中で、ロシアとウクライナは戦争をしており、イスラエルはパレスチナや周辺国、特にイランとの紛争もあり、アジアでは中国が覇権を唱えるべく南シナ海や台湾等に圧力を強めています。そして日本はと言えば、特に南西諸島方面で中国の動きも活発化していて、以前よりも対中国からの軍事的な緊張感が高まっていると感じるのです。
こんな世界となってしまいましたが、これは一体どの様な事なんだろうか、この混沌となる世界の根っこには一体何があるのか。そんな事を考えた時、ふと日蓮の兄弟抄の一節を思い出したのです。
「此世界は第六天の魔王の所領なり。一切衆生は無始已来彼魔王の眷属なり。六道の中に二十五有と申ろうをかまへて一切衆生を入のみならす、妻子と申ほたしをうち、父母主君と申あみをそらにはり、貪瞋痴の酒をのませて仏性の本心をたほらかす。但あくのさかなのみをすゝめて三悪道の大地に伏臥せしむ。たまたま善の心あれは障碍をなす。」
ここで日蓮は、この世界は第六天の魔王の所領だと言っています。この第六天の魔王とは別名を他化自在天と言い天界に住む神です。そして全ての人々は、この世界が始まってから今に至るまでこの魔王の眷属だというのです。
ここで六道と言いますが、これは日常生活の中と言っても良いでしょう。そしてこれは二十五有という牢屋の様なものだと言うのです。要は日常生活で感情に左右され、様々な事に右往左往している事を牢獄に譬えているのでしょう。また妻子という「絆し(ほだし)」という縛りを付けてとありますが、この絆しとは牛に付ける鼻環を言います。また両親や社会の中の上司などの人間関係を「網」に譬え、それを牢獄の上にかぶせていると言うのです。そしてその中で貪瞋痴とありますが、自分自身が何者であるのか判らなくなるような酒を呑ませて、本来人間が持っている慈悲や智慧等が使えない様に抑え込んでいると言うのです。
これはとても的確な比喩ですよね。特に妻子や両親等、社会の中の人間関係を、牢獄に抑え込むための束縛装置と表現しているのは、全く以ってその通りだと思いませんか?
そしてこの社会から抜け出そうとすると、第六天の魔王というのは様々な邪魔をしてくるというのです。
確かに社会の中で、何か為になる行動を起こそうとすると、妻子や社会の中の人間関係というのは、意外と大きな縛りになる事は、良くある話ですからね。またそこをターゲットに攻撃をして、人の行動を抑圧するというのも良くある話ではありませんか。
ではそもそもなんですが、第六天の魔王(他化自在天)とは、どの様な存在なのでしょうか。

左の絵はネットで「他化自在天」を検索して拾った画像なんですが、こんな姿なんでしょうかね?
一般的に日本の歴史の中では織田信長を第六天の魔王と呼んでいたりして、また日蓮正宗では池田大作氏を、創価学会では日顕師の事を互いに第六天の魔王と呼んでいましたが、そんなものではないでしょう。
仏教では様々な仏菩薩、また諸天善神というのは説かれていますが、それらは例えばバラモン教の神々であったり、日本においては八百万の神々であったりもしますが、捉え方としては個々の人の心の中にある境涯の姿として捉えています。つまり誰もが持ち合わせている境涯の姿と言っても良いでしょう。
ではより具体的にどの様な境涯の事を指すかと言えば、「他化自在天」という名前が指す様に、これは自分以外の周囲の人々や環境を自由自在に動かす事で、快楽を感じる境涯と言っても良いでしょう。
私自身もそうですが、これを読んでいる皆さんも、こういった境涯を持ち合わせているのは、良く解ると思うのです。誰もが周囲の人々や環境を自分の思い通りに動かしたいと言う欲望は、心の奥底にあるはずなんです。
そしてそれを現在の人類社会の中で、この「他化自在天」の境涯を満足させるものがありますが、それは何だか考えた事ありますか?
私はこれを「お金=資本」だと考えているのです。
このお金があれば、今の社会の中で大抵のものは自由になります。良く言うではありませんか「持っているお金の多寡は、社会の中でその人が持つ自由の大きさだ」なんて事を。
つまり各個人の中にいる「他化自在天」の境涯が、今の人類社会の中で求めるとしたら、それは「お金=資本」と言っても良いでしょう。つまり今の人類社会とは、こういった境涯によって、結果人間は「お金=資本」に縛り付けられている状態とも言えるわけです。
ただしこれは決して貨幣経済とか、今の経済社会全般を否定するものではありません。重要なのは、それに人々はあまりに安易に振舞わされていないかという事なのです。
私はその様に今の人類社会の有様を見ています。
戦争を起こすのも資本、地球環境の破壊を止められないのも資本、社会の中で様々な問題の解決を促すのも資本ですが、逆にその資本が故に人々は解決を難しくもしている様に思うのです。
こうみると単純な事の様にも思えますが、この事を人類は5000年以上の歴史を持ちながらも、未だに解決する事が出来ていない状況なのです。
これはどうにか成らないモノでしょうか。
ちなみに日蓮は「日女御前御返事」の中で、以下の様に述べています。
「此御本尊の中に住し給、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是を本尊とは申也」
これは御本尊と言っていますが文字曼荼羅の事ですね。日蓮が認めた文字曼荼羅には釈迦・多宝の二仏や地涌菩薩の上首の四菩薩、その下には様々な仏菩薩や二乗、中国や日本の論師や諸天善神が認められていますが、これは意義的に人の心の中にあるすべての境涯が描かれていると言います。そしてそこには当然、他化自在天も含まれています。
こういった人の心の中にある様々な境涯も、妙法の五字の光明と言っていますが、これは御題目の光と日蓮は言っていて、それによって本来あるべき尊い姿形を顕す様になると言っているのです。
実はここに私は何かしら、この人類の抱える問題の解決の糸口があるのではないか、なんて甘い事を考えている訳です。
ただこの事を私は「日蓮の御本尊に御題目を唱えれば良いんだ」とか「御題目を広めなくてはならない」「御本尊(文字曼荼羅)を拡大しなくてはいけない」という様な短絡的な事を指してはいないと考えていますし、ましてや公明党を支援すれば解決するなんて愚の骨頂でしょう。
その為には、まずこういった事の共通認識、これは先の兄弟抄の一節にある姿の事ですが、これを人々の中に意識させていく事が必要なのではないかと、そんな事を考えているのですが、皆さんは如何思いますか?
ちょっと考えている事を、今回は書かせて頂きました。