
続いて観心という事について日蓮は述べていきます。
問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界百界千如一念三千を知らざるなり。
ここで一念三千の事については聞く事が出来たとして、観心とはどの様な事なのかと問いを設けます。それに対して「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり」と、自分自身の心を観て、そこに十法界(十界)を見る事を観心という事だと答えます。この事について例えば他人の姿を人は見る事が出来ても、自分自身の姿を見る事が出来なければ、自分がどの様なものを具えているのか知る出来ないと同じで、そこで明鏡(かがみ)に向かう事で、人は初めて自分自身の姿を見る事が出来ると同じ事だと述べるのです。
そしてこの時には爾前経の様に不完全な鏡に向かうのではなく、法華経や天台大師の魔訶止観等の教えを鏡として観心しなければ、自身に具わる一念三千の姿を知る事が出来ないと言うのです。
問うて云く法華経は何れの文ぞ天台の釈は如何
そこで、その事を法華経では何処に書かれているのか、また天台大師の解釈はどの様になっているのかと更に問いを起こします。
答えて曰く法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり
それに対して、法華経の方便品にある「衆生に対して仏知見を開かしたいと欲する」等の経文があるが、これは九界に具わる仏界を表す言葉だと言います。そして以下の様に続けていきます。
寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命無量阿僧祇劫常住にして滅せず諸の善男子我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり
これは仏界に具わる九界を表す言葉。
経に云く「提婆達多乃至天王如来」等云云地獄界所具の仏界なり。
提婆達多は地獄界を示していますので、これは地獄界に具わる仏界を表す言葉。
経に云く「一を藍婆と名け乃至汝等但能く法華の名を護持する者は福量るべからず」等云云、是れ餓鬼界所具の十界なり
藍婆とは十羅刹女でこれは餓鬼界を示していますので、これは餓鬼界に具わる十界。
経に云く「竜女乃至成等正覚」等云云此れ畜生界所具の十界なり
龍女とは畜生界を示していますので、これは畜生界に具わる十界。
経に云く「婆稚阿修羅王乃至一偈一句を聞いて阿耨多羅三藐三菩提を得べし」等云云修羅界所具の十界なり
婆稚阿修羅王は修羅界を示していますので、これは修羅界に具わる十界。
経に云く「若し人仏の為の故に乃至皆已に仏道を成ず」等云云此れ人界所具の十界なり
これは人界に具わる十界。
経に云く「大梵天王乃至我等も亦是くの如く必ず当に作仏することを得べし」等云云此れ天界所具の十界なり
大梵天王は天界を示しているので、これは天界に具わる十界。
経に云く「舎利弗乃至華光如来」等云云此れ声聞界所具の十界なり
舎利弗は声聞界を示しているので、これは声聞界に具わる十界。
経に云く「其の縁覚を求むる者比丘比丘尼乃至合掌し敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」等云云、此れ即ち縁覚界所具の十界なり
これは縁覚界に具わる十界。
経に云く「地涌千界乃至真浄大法」等云云此れ即ち菩薩所具の十界なり
これは菩薩界に具わる十界。
経に云く「或説己身或説他身」等云云即ち仏界所具の十界なり
これは仏界に具わる十界。
この様に法華経の経文の中には、十界それぞれに十界が具わる事が説かれていると言う天台大師の解釈の内容を答えます。
問うて曰く自他面の六根共に之を見る彼此の十界に於ては未だ之を見ず如何が之を信ぜん、答えて曰く法華経法師品に云く「難信難解」宝塔品に云く「六難九易」等云云、天台大師云く「二門悉く昔と反すれば難信難解なり」章安大師云く「仏此れを将て大事と為す何ぞ解し易きことを得可けんや」等云云、伝教大師云く「此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」等云云、
次に自分や他人の六根(姿や形)を見る事は出来るという話しは理解できるが、そこに十界を見る事は出来ないだろう、これについてはどの様に信じたら良いのか、という問いを起こします。
その問に対しては法華経や天台大師、章安大師、伝教大師がそれぞれに「難信難解(信じ難く理解し難い)」と、容易に理解する事は出来ないという事を述べます。
夫れ在世の正機は過去の宿習厚き上教主釈尊多宝仏十方分身の諸仏地涌千界文殊弥勒等之を扶けて諌暁せしむるに猶信ぜざる者之れ有り五千席を去り人天移さる況や正像をや何に況や末法の初をや汝之を信ぜば正法に非じ。
そして釈迦在世の人々は機根も整い過去に多く習い学んで来た人達ですが、それでも釈迦仏や多宝仏、地涌の菩薩や文殊菩薩、弥勒菩薩等の助けを得て教えられたにも関わらず、この事を信じる事が出来ないで説法の座から退出した人々が居た事を述べ、末法の始めでこの事を易々と信じる事が出来たのであれば、それでは逆にこの事は正法では無いだろうと答えます。
問うて曰く経文並に天台章安等の解釈は疑網無し但し火を以て水と云い墨を以て白しと云う設い仏説為りと雖も信を取り難し、今数ば他面を見るに但人界に限つて余界を見ず自面も亦復是くの如し如何が信心を立てんや、答う数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄貪るは餓鬼癡は畜生諂曲なるは修羅喜ぶは天平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し。
ここで経文や天台大師や章安大師等の解釈について、ここまで説明される中で疑念を差し挟む事が出来ないが、その内容を見ると火を以ってそれを水だと言い、墨を以ってこれは白だと言う様なもので、未だ仏が説いた事と言っても信じる事が難しいと述べます。ここで他者を見てみると、人界に限って見ても他の十界を見る事が出来ないと言い、これでどの様に一念三千の事を信じろと言うのかと問いを設けます。
それに対しては他人を見る時、その人はある時は喜び、ある時は瞋り、またある時は平静であり、またある時は貪る心を起こし、またある時は愚かな行動を起こしたり、驕り昂ったりする姿を見る事が出来るでは無いかと述べ、それぞれが地獄や餓鬼、畜生や修羅、人界や天界の姿を見る事が出来るのでないかと答えます。ただし四聖という境涯については冥伏しているので表に現れる事は無いが、詳細にこれを見て行けば存在する事が解るだろうと言うのです。
観心については、もう少し続きますので、今回は一旦ここで切ります。