自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

創価学会や公明党の議論の難しさ

いまこのブログでは「観心本尊抄」について読み解きを進めています。

ここまで読んでいて思うのは、日蓮は自身の感得した内容を、僧侶らしく様々な文献を引用して説明をしていますが、いずれの文献についても正直私達の生活の中で触れるものではなく、それが故に理解する事がとても難しいという事です。

まあ、その事はとりあえず脇に置いておきます。
今回は別の記事を書きます。

いまX等を見ていると、創価学会公明党の事について、擁護推進派(昔は罵詈活とも呼んでいましたが)と否定派(こちらはアンチと呼んでいます)のやり取りが、かなりの頻度で行われています。

私の現在の立ち位置は、この二つに分類した場合には「アンチ」となります。だからXにも今の創価学会公明党に対して否定的な投稿をしています。

私の場合には、前の記事にも書きましたが、そのアンチへと至った要因は、四半世紀以上の間、罵詈活であったのですが、特に今世紀に入ってからの創価学会の転向ぶりや、創価学会組織でもその転向を受け入れている現実を見た事、それを変える事は不可能である構造的な問題、そして最も大きな事は創価学会の中にある大きな自己矛盾とそれを隠蔽する体質について理解したからです。

多くの学会活動家は目を背け、本部幹部や区幹部は知っていて組織擁護の為に受容していますが、私にはそれが出来ませんでした。

まあ自組織の歴史の改ざんや、池田氏の虚飾等に私も気付いてしまったという事なんでしょうね。簡単に言えば。

この活動を止めるまでの個人的な過程については、以下の記事でも少し書いています。

tango-saito.hateblo.jp

tango-saito.hateblo.jp

tango-saito.hateblo.jp

 

私がアンチに至ったのはこういった過程を経ての事なのです。

そんな感じで現在の私はいるのですが、本日、X上で以下の意見を拝見しました。

これについて言えば、Xという媒体ではこういった事もあるでしょう。何故ならXという媒体では140文字という文字制限があります。その中で「対話」と言っても中々難しいと思うんですよね。

私が「罵詈」から「アンチ」に移行するまでの間、そこには個人的な内面の問題、また個人の周囲に起きた様々な事情のと云うのが存在します。ある人がそれまで全幅の信頼を寄せて来た組織から「裏切られた」という事を感じるまでには、けして一筋縄では行かない出来事というのがありますし、そんな人に対して「いやいや、そんな組織ではありませんよ」なんて姿勢で安易に言われた所で、そこは人間、まず感情が先にどうしても立ってきてしまいます。そこへ来て140文字の制限があっては、先にある「一筋縄では行かない出来事」なんていうのは語る事なんて出来ません。

するとどうなるのか。

そこで「実りある議論」なんて求めた所で、議論の始めからかみ合わなくなってしまうのです。

あとこれには別の要因も絡んできます。

私の場合でもそうですが、往々にして組織から離れた人というのは、離れるだけの要因となる創価学会公明党の姿(事実)を知ってしまったという事があります。しかしこの姿(事実)は、組織活動に励む人や、要は「前向きに活動に携わる人」には往々にして受け入れられない事もあるのです。

そして受け入れられない場合、それについて「デマ」というレッテルを貼って一方的にその姿(事実)を「前向きに活動に携わる人」は封印してしまいます。要は聞く耳を持つことはしませんよね。たとえそれがネット上でググったら直ぐに出てくる事だとしても、「これは捏造された情報なんだ」と信じ込む姿勢が極めて強固になります。

これは何故かと言えば、心理学的に言うところの「合理化」という働きの為と言っても良いでしょう。

宗教や思想というのは、きわめて個人の自我の根深い所に関わってきます。ですからその思想や宗教を否定する情報や出来事にあった場合、人の心というのは自我を守る為に、それら情報や出来事を「合理化」するという働きが起きてしまうのです。

 都合が悪い=偽情報でデマ

こういった事であれば、自我が揺れ動く事なく都合の悪い情報というのはスルー出来ますから。

ちなみに私の場合は、今から十数年前にこういった自分が人生をかけて信じて来た創価学会について、都合の悪い事実を突きつけられた時、それを否定する事が出来ない状況を理解した後、一時期「人間不信」に陥った事もありました。要は精神的にかなり弱った状況にまで行ってしまいましたからね。

そんな時、支えになってくれたのは家族であり、仕事場の同僚でした。
地元の「元・三世永遠の同志」に至っては「忘恩の輩」「信心の敗残者」など、様々な陰口が言われていたもんです。

以前にマスコミでも、タレントが「カルト宗教」に嵌ってしまった事が話題になりましたが、そこでも良く「カルト宗教からの離脱は難しい」という事が話題になりました。創価学会でも、実際に創価学会から距離を置くというのは、現役信者にとっては大いに困難であると思います。

創価学会の場合には宗教団体の枠という話しだけではなく、親戚縁者や知人友人、下手をすれば地域の自治会の役員の中にも、創価学会の幹部が居たりもするので、そんな組織から距離を置くというのは、組織に関わりが深ければ深いほど、その人の中にもかなり大きな抵抗を産むことは間違いないでしょう。下手すればそれまでの人間関係を壊しますからね、これは大きな障害にもなります。

様々な事を書きましたが、ここで結論。

創価学会の信者との議論は、かなりハードルも高く困難と思われますし、それをXという媒体で行う事は難しいと思われます。

まあ意見交換程度であれば可能と思われます。しかしそれでも双方にそれなりのスキルが求められます。どんなスキルかと言えば、個人の内面に湧き上がる感情的を抑制するスキルでしょうか。

あと議論という事で言えば、議論の目的、到達点、そして議論をする際の用語の定義などは定めておかないと、空中戦という、要はかみ合わない議論になってしまうのは明らかです。でもそんな事を理解して議論という言葉を使う人は、ほとんど皆無と言っても良いでしょう。

あとアンチ創価が議論をすると、ブロックするとか消えるとか、そういう事について。

私がXを初め、それ以前のブログや掲示板を見ていて思うのは、アンチ創価側ではなく、創価罵詈活側がネット上から消えていく事の方が多いと思いますよ。

何故消えるのか、それは反論できなくなるからですね。

ただ一方で「ウザ絡み」とも呼ばれていますが、議論がかみ合わない事を自覚出来ない相手というのは放置されるのはXでは常套手段でもありますので、そういう事なのかもしれませんね。

だって議論もかみ合わない事を自覚されないで、一方的にメンションされても、それを相手にする時間がもったいないですからね。

もし意見交換をどうしてもしたいと言うのであれば、メール等でやりとりし、必要であればブログや掲示板で互いのやりとりを公開して行っても良いかもしれませんが、今の創価学会の信者には、これをやっても決してプラスにはならないと思います。

だって教学要綱の問題を2014年から放置して、今になってネットで騒がれて防戦している程度の様では、議論以前に情報や自分達の拠って立つ処の教義にすら無関心だという問題を抱えていると思いますからね。

以上、個人的に考えた事を書いてみました。