自燈明・法燈明のつづり

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観心本尊抄について⑨-末法の本尊について

日蓮が己の解釈を語り、そこで本尊の相貌を明かしたのですが、ここからその本尊の内容について更に語っていきます。

問う正像二千余年の間は四依の菩薩並びに人師等余仏小乗権大乗爾前迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由之を申す、此の事粗之を聞くと雖も前代未聞の故に耳目を驚動し心意を迷惑す請う重ねて之を説け委細に之を聞かん。

ここで正法時代や像法時代の二千余年の間は、四依の菩薩並びに人師等の余仏、小乗教や権大乗教、爾前迹門の釈尊等の寺や塔を建立していても、本門寿量品の本尊並びに地涌の四菩薩を三国の王臣が尊重していない事を述べ、この事を粗々聞いたが前代未聞の事であり、耳目驚き心が混乱している。重ねて今の事を聞かせてほしい。という問いを設問します。

答えて日く法華経一部八巻二十八品進んでは前四味退いては涅槃経等の一代の諸経惣じて之を括るに但一経なり始め寂滅道場より終り般若経に至るまでは序分なり無量義経法華経普賢経の十巻は正宗なり涅槃経等は流通分なり、正宗十巻の中に於て亦序正流通有り無量義経並に序品は序分なり、方便品より分別功徳品の十九行の偈に至るまで十五品半は正宗分なり、分別功徳品の現在の四信より普賢経に至るまでの十一品半と一巻は流通分なり。

問いに対してここで法華経一部八巻二十八巻、進んでは前四味である爾前経、退いては涅槃経等の諸経があり、総じてこれを一括りにすればただ一つの経典なのであると言い、寂滅道場から般若経までは序文にあたり、無量義経法華経、普賢経の十巻は正宗分。涅槃経等は流通分であると言います。また正宗分十巻の中に於いても序文、正宗分、流通分があり、無量義経法華経の序品は序分であり、方便品から分別功徳品の十九の偈までは正宗分、分別功徳品の現在の四信より普賢経までは流通分であると、まずは全体像について述べています。

法華経等の十巻に於ても二経有り各序正流通を具するなり、無量義経と序品は序分なり方便品より人記品に至るまでの八品は正宗分なり、法師品より安楽行品に至るまでの五品は流通分なり、其の教主を論ずれば始成正覚の仏本無今有の百界千如を説いて已今当に超過せる随自意難信難解の正法なり、過去の結縁を尋れば大通十六の時仏果の下種を下し進んでは華厳経等の前四味を以て助縁と為して大通の種子を覚知せしむ、此れは仏の本意に非ず但毒発等の一分なり、二乗凡夫等は前四味を縁と為し漸漸に法華に来至して種子を顕わし開顕を遂ぐるの機是なり、又在世に於て始めて八品を聞く人天等或は一句一偈等を聞て下種とし或は熟し或は脱し或は普賢涅槃等に至り或は正像末等に小権等を以て縁と為して法華に入る例せば在世の前四味の者の如し。

また法華経等十巻についても、無量義経と普賢経の二経があり、それぞれに序分、正宗分、流通分が具わっている事を言い、無量義経と序品は序文であり、方便品から授学無学人記品までの八品は正宗分であり、法師品から安楽行品までの五品が流通分であると言います。

そしてその教主を論じれば始成正覚の仏で本地を明かさず二乗作仏のみ説かれた百界千如を説いて已今当の三世を超えた随自意の難信難解の正法である事を述べ、過去の結縁を尋ねれば大通仏の第十六の王子が説法の時、下種を受けて法華経の先立ち華厳経等の前四味の教えをもって助縁として大通仏の時の趣旨を覚知したのであると言うのです

しかしこれは仏の本意ではなく、ただ毒が体の中に入り発症した様なもので、二乗や凡夫等は前四味の教えを縁として次第に法華経に至って種子を顕して成仏を遂げた機根とは是の事であると言います。

また釈迦在世において始めて法華経八品を聞く人天等、あるいは一句一偈を聞いて下種となり、或いは熟し或いは脱し、或いは普賢経や涅槃経等に至って、或いは正法や像法時代等に小乗経や権経などを以て縁として法華経に入るのは、例えば在世の前四味の者の様なものであると言います。

又本門十四品の一経に序正流通有り涌出品の半品を序分と為し寿量品と前後の二半と此れを正宗と為す其の余は流通分なり、其の教主を論ずれば始成正覚の釈尊に非ず所説の法門も亦天地の如し十界久遠の上に国土世間既に顕われ一念三千殆んど竹膜を隔つ、又迹門並びに前四味無量義経涅槃経等の三説は悉く随他意の易信易解本門は三説の外の難信難解随自意なり。

また本門十四品の一経にも序分・正宗分・流通分があると言い、従地涌出品の前半を序分として、寿量品と従地涌出品の後半と分別功徳品の前半を正宗分として、その外は流通分であると言います。

この教主を論ずれば始成正覚の釈尊ではなく、説く所の法門もまた天地ほどの様な違いがある。久遠からの十界の上で釈尊の住む国土世間が既に顕れ、一念三千の差は殆ど竹膜の隔たりの様に薄くなったと言います。

また迹門並びに前四味、無量義経や涅槃経等の已今当の説は悉く隋他意で信じやすく理解しやすいのですが、この本門は已今当の外の信じがたく理解し難い随自意であると言います。

又本門に於て序正流通有り過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経乃至迹門十四品涅槃経等の一代五十余年の諸経十方三世諸仏の微塵の経経は皆寿量の序分なり一品二半よりの外は小乗教邪教未得道教覆相教と名く、其の機を論ずれば徳薄垢重幼稚貧窮孤露にして禽獣に同ずるなり、爾前迹門の円教尚仏因に非ず何に況や大日経等の諸小乗経をや何に況や華厳真言等の七宗等の論師人師の宗をや、与えて之を論ずれば前三教を出でず奪つて之を云えば蔵通に同ず、設い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還つて灰断に同じ化の始終無しとは是なり、譬えば王女たりと雖も畜種を懐妊すれば其の子尚旃陀羅に劣れるが如し、此等は且く之を閣く迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す、

また本門において序分・正宗分・流通分があると言い、過去、大通仏の法華経から現在の華厳経、そして法華経迹門十四品や涅槃経等の釈尊一代の諸経、十方三世諸仏の説いた微塵の経典はすべて皆、寿量品の序分なのであると言います。

寿量品一品と従地涌出品の後半、また分別功徳品の前半より他は小乗教や邪教、未得道教、覆相教と名付けるのであると言います。またその機根を論じれば、徳は薄く垢は重く、幼稚にして貧窮、孤露であり禽獣といった動物と同じであると言い、爾前迹門の円教は尚成仏の因では無い、ましてや大日経等の諸小乗経もそうだし、華厳宗真言宗の七宗の論師や人師の宗派もそうだと言うのです。

この事を与えてこれを論ずれば前三教(蔵・通・別)の範疇を出るものでは無いし、奪って言えば蔵教や通教と同じであると言い、設へ法は甚深であると称しても今だ下種・塾益・脱益という成仏事を論じてもいないし、かえって灰身滅智と同じで化導の始終が無いというのはこの事であると言い、これは例えば王女であったとしても畜生の種を懐妊すれば、生まれた子供は不可触賤民よりも劣るようなものであると言うのです。

これ等の事は暫く置いておく。迹門十四品の正宗分の八品は一往これを見ると二乗を主流として菩薩や凡夫を傍流としていると言います。

再往之を勘うれば凡夫正像末を以て正と為す正像末の三時の中にも末法の始を以て正が中の正と為す、

再往これを考えてみると凡夫を正法・像法・末法の主流とするのであると言い、正像末の三時の中でも末法のはじめを以て主流の中の主流とするのであると言います。

問うて曰く其の証如何ん、

問うが、その証文はあるのだろうかと問います。

答えて曰く法師品に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」宝塔品に云く「法をして久住せしむ乃至来れる所の化仏当に此の意を知るべし」等、勧持安楽等之を見る可し迹門是くの如し、本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す所謂一往之を見る時は久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至って等妙に登らしむ、再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり。

それに答えて言うが、法師品には「しかもこの経は如来の現在すら怨嫉が多い、況や滅度の後はより多くなる」とあり、宝塔品には「法をして久住させるのである、乃至、来れる所の化仏は当にこの意義をしるべきだ」等とあると言います。

勧持品や安楽行品を見るべきで、迹門はこの様になっていると言います。本門を以てこれを論じるのであれば、一向に末法のはじめを以て正機としていると言い、いわゆる一往これをみれば久遠の種を以て下種として、大通仏から四味迹門を塾益とし、本門に至って等覚や妙覚に登らせているというのです。

この事を、再往これをみれば迹門には似ず本門は序分や正宗分、流通分俱に末法の始めを以て詮としているのです。在世の本門と末法の始めは一同に純円の時ですが、但し在世は脱益で、末法は下種であると言うのです。だから在世は寿量品一品と従地涌出品の後半、また分別功徳品の前半であるのに対して、末法はただ五字の題目だけなのであると言うのです。