自燈明・法燈明のつづり

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創価学会の本尊について⑤

一念三千の事について前回書きましたが、なぜ日蓮の文字曼荼羅が「観心した内容の本尊」になるのか、ここで考察を進めたいと思います。

◆文字曼荼羅の相貌

本抄ではこの文字曼荼羅の相貌について、以下の様に述べていました。

「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊菩薩弥勒菩薩等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり」

ここでは主題の題目と、題目を収める宝塔内の左右に釈迦牟尼仏多宝如来の二仏が並座し、この脇士として地涌菩薩の上首の四菩薩が勧請され、その地涌菩薩の眷属として普賢菩薩弥勒菩薩が末座に居るとあります。また迹化他方の様々な菩薩は万民と大地にいて、十方の諸仏は大地の上に居て、これは迹仏が迹土に居る事を表しているというのです。

またこの相貌については、日蓮の自作では無いという事が、日女御前御返事には以下の言葉で語られています。

「是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり」

ここでは「すりかたぎ(摺形木)」と述べていますが、この相貌については妙法蓮華経の従地涌出品第十五から属累品第二十二までの虚空会の儀式の姿と言われています。

要は日蓮はこの虚空会の儀式の姿こそ、「観心した内容としての本尊」だと理解したのでしょう。つまり虚空会の姿こそが、人の心の中にある一念三千の姿を現わしているというのです。

これは一体どういう事なのでしょう。

主題のお題目、本抄では妙法蓮華経と言っていますが、これは南無妙法蓮華経の七文字を指しています。南無妙法蓮華経の意義については、御義口伝に書かれている内容と私は理解していますが、それは以前に以下の記事でも書きました。

tango-saito.hateblo.jp

このお題目が中心にあり、それを中心として釈迦如来と多宝仏の二仏が並座しているのですが、この釈迦牟尼仏とは久遠実成の釈尊でしょう。釈迦仏にしても多宝仏にしても、開悟したというのはまぎれもなくこのお題目によってであり、かつここではこの二仏がお題目と共に塔中の中に並び座しているのです。

これなどは「無始の仏界」を象徴しているのかもしれません。

そしてその久遠実成の釈尊の眷属として、上行菩薩を初め地涌の菩薩もいますが、これは形式としては二仏に対面して座しています。その他、普賢菩薩弥勒菩薩といった諸菩薩等は、その地涌の菩薩の眷属として後ろに座しているという意義で勧請されていますが、これら諸尊の姿というのは、私達の心の中に存在する菩薩の境涯という意義でしょうか。

また「迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して」という事もあり、これには菩薩界以外の八界もこの文字曼荼羅には具わるという意義を述べていると思います。

また本抄では、この文字曼荼羅の相貌について概要的な説明に留まっていますが、恐らく日蓮は、この文字曼荼羅の相貌は己心の中に具わる一念三千の姿として、具体的にどの様に諸尊を勧請すべきか、そこは佐渡期以降に様々な思考を重ねて行ったのでしょう。これは日蓮の直筆本尊の経緯を拝見して思いました。そして弘安期になるとこの相貌の形式というのが、ある程度固定化していった様にも見受けられるのです。

あと私自身思うのは、この文字曼荼羅の相貌とは、本門の因果を具現化するものであり、それは開目抄でも述べていた「此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」の具体的な姿だと考えています。

◆観心の本尊の意義

本抄では、この観心本尊は末法に縁があると言い、久遠実成の釈尊の眷属として地涌の菩薩が受持し、末法に出現すると日蓮は述べています。またその際の地涌の菩薩の姿としては以下の様に述べています。

「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。」

この言葉について日蓮正宗では、折伏を行じない僧侶の立場を「折伏の上の接受を行う立場」と言い、創価学会の第二代戸田会長は、僧形として出現した日蓮が行ったのは「摂受」であり、在家集団である創価学会が行う折伏こそが日蓮を越える「本門の折伏」と解釈をしていました。

しかしこれについては、外面の姿というよりも、その立ち居振る舞いを述べた事だと私は思います。日蓮は僧の立場でありながら、立正安国論で主張した事は、幕府の政(まつりごと)への諌暁であり、この姿勢は「賢王と成つて愚王を誡責」という姿勢であったと思います。また自身の法門を考察し、それを門下に教化する姿は「僧と成つて正法を弘持す」の姿であると思うのです。

日蓮正宗を初め、創価学会においても日蓮の言葉を自分達の組織の都合で解釈をしていますが、こういったある意味で「我田引水」の解釈が、実は日蓮の言葉の真意を伝わり難くしているのではないでしょうか。

あと日蓮の文字曼荼羅の意義について、本抄ではあまり具体的に説明はしていませんが、その事については幾度も引用した「日女御前御返事」には以下の言葉がありました。

「されば首題の五字は中央にかかり四大天王は宝塔の四方に坐し釈迦多宝本化の四菩薩肩を並べ普賢文殊舎利弗目連等坐を屈し日天月天第六天の魔王竜王阿修羅其の外不動愛染は南北の二方に陣を取り悪逆の達多愚癡の竜女一座をはり三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神十羅刹女等加之日本国の守護神たる天照太神八幡大菩薩天神七代地神五代の神神総じて大小の神祇等体の神つらなる其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩大聖等総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」

この日女御前御返事は別名を「御本尊相貌抄」とも呼ばれていますが、ここでは文字曼荼羅の相貌について、観心本尊抄と比較してもより具体的に述べています。この御書は建治三年八月に認められていますので、観心本尊抄よりも、より考察された文字曼荼羅の相貌について具体的に述べています。

ここでは十界曼荼羅の相貌として、普賢菩薩文殊菩薩以外にも、二乗や諸々の諸天善神、また日本の天神地祇に至るまで述べられていますが、これらは全て「此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる」と述べています。

ここで言う「本有の尊形」とは、本来あるべき尊い姿と云います。

この文字曼荼羅に勧請されている仏菩薩や二乗、諸天善神から天神地祇に至るまで、実は私達の己心の一念の中に存在する境涯なのですが、南無妙法蓮華経というお題目の意義に照らされる事で、本来あるべき姿として自身の人生の中で、これら諸尊が姿を現わすという事を意味しているのかもしれません。

そしてそれこそが、実は私達が自身の中にある「一念三千」を観心する目的でもあるのではないでしょうか。文字曼荼羅にはそういう意義が込められていると私は考えているのです。

この具体的な事については、続きで少し語っていきたいと思いますが、それは単なる「祈りを叶えるお札」という様なものではないと思います。