
少し長きにわたり「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」について読んできました。
ここまで読んできた結論として、日蓮の本尊観の中心はお題目であり、それを中心に釈迦仏を安置しても良く、余裕があれば仏菩薩の像を本尊として置いても構わないという事だったのでしょう。ただ佐渡流罪以降、観心の本尊として文字曼荼羅を顕しましたが、これは日蓮の感得した「観心した内容の本尊」であり、これは地涌の菩薩が末法に護持して顕されるべき大本尊という事でした。
日寛師の「観心本尊抄文段」に以下の言葉があります。
「故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。」
ここで日寛師のいう「本尊」とは、大石寺にある大本尊を指すわけですが、ここにある「則ち祈りとして叶わざるなく、云々」という言葉を元にして、これまで創価学会としては日蓮の文字曼荼羅を、まるで「全ての祈りを叶える巻物」の様に会員に教えてきました。ちなみに妙楽大師の言う「功徳」とは「六根清浄」であって、御利益の事ではありません。
しかし観心本尊抄を拝読する限り、こういった趣旨の事を日蓮は述べていません。あるのは一念三千の事、そしてその一念三千を表現したという文字曼荼羅という事だけです。そしてこの文字曼荼羅は「観心した内容の本尊」であり、祈りを叶える事を目的としたものでは無いのです。
しかしそうは言っても、日蓮の御書の中にも「祈りとして叶わざるなし」という言葉等がありますが、得てしてそういった御書とは門下に対して励ましを送るための御書に書かれていますが、いわゆる「教門」の御書には、そういった事は書かれていません。
では日蓮は、この文字曼荼羅を何のために顕したのか。それは観心本尊抄の以下の言葉に顕れていると私は思うのです。
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」
ここには法華経にある一念三千を「識らざる者」とありますが、要は知らない人、また理解しない人に、その一念三千を包んで首に掛けさせたいとあるのです。つまり日蓮の文字曼荼羅の意義とはそういう事かもしれません。
◆事の一念三千について
日蓮の教学の中で、この一念三千については「理の一念三千」と「事の一念三千」という事が言われています。要をまとめて言えば、「理の一念三千」とは理論的な一念三千であり、「事の一念三千」とは事実上の一念三千を指します。そして理論的な事は天台大師が顕したと言いますが、事実上の一念三千は日蓮が法華経を身読する中で示したとも言われています。

より具体的に言えば、日蓮は幕府への諌暁を行い、結果としてそこから様々な迫害や法難に逢う中で、法華経勧持品にある二十行の偈を身読したと言います。こ
確かにの二十行の偈文では、法華経を弘通する中で出会う三類の強敵の事が述べられていて、それを日蓮が身を以って体験した事を身読とし、それこそが事の一念三千であると述べています。
私はこれは日蓮としての経験であり、それはそれで一つの事実であるとは思いますが、何も法華経を信じる人全てが日蓮と同じように権力者からの難にあう必要はないと思うのです。いや、云い方を変えた方が良いでしょうか。何も法華経を信じる上で、権力者からの難を求める必要はないと言った方が良いかもしれません。
法華経に限らず社会の中でより人々を正しい方向に導く人というのは、何かにつけて権力者からの様々な難には遭遇します。これは歴史上で見ればアメリカで人権運動を行ったキング牧師しかり、近年ではアパルトヘイト撤廃を訴え一万日の間、投獄されていた南アフリカのネルソン・マンデラ氏も然りでしょう。
しかしこの世界はそういった人々ばかりでは無く、多くの庶民などは権力と真正面からぶつかる事などそう多くはありません。それよりも日々の人生の中で、様々な苦難に直面する人の方が絶対数としては多い筈です。法華経が末法の衆生を志向しているというのであれば、そういった人々にこそ焦点があたるべきであって、何も「権力者からの難にあう事こそが法華経を身読する」という思想性ではないと私は思うのです。
現に創価学会では法難と呼んでいますが、牧口会長の獄死、戸田会長の投獄、池田会長の大阪事件。何れを取ってみてもそれらを「法華経が故の法難」と呼んでよいのか、私は大きな疑問を感じています。むしろそういった権力者からの迫害を美談とする事で、その宗教を信じる人たちの社会通念を捻じ曲げてしまう可能性の方が大きいのかもしれません。「難こそ誉れ」という言葉は、庶民の信仰では主眼にはならないのです。
また日蓮の法難に於いても、その背景を調べていくと必ずしも「法華経の信仰」だけが原因で法難にあっている訳ではありません。日蓮から見た場合、すべて自身の法華経の信仰が故に起きたと見ていますが、その背景にあるのは、その行動が既得権益への侵害であったり、係争中の権益争いに関与した為であったりと、そこの背景には法華経への信仰とは異なる様々な事が起きていたのが解ります。
恐らく迫害する方の視点から考えてみると、自分や周囲への不利益があるからこそ、そこで日蓮を亡き者にしようという行動が起きていました。
間違えてほしくは無いのは、日蓮にしろ過去に仏教を信じ弘教する人の中で難にあった人達全てを否定しろという事ではありません。それら殉難の人の中には立派な人物もいましたし、そこに尊敬の念を持つことを否定はしません。しかしその難に逢う事が信仰の目的化する事があってはならない思うのです。
◆経験から私が理解した事
さて、一念三千とは「自分の心の本源に仏が存在する事」を理解するための理論でもあります。現代に於いて「仏」と言われても中々理解する事が難しいかもしれませんが、観心本尊抄には以下の事が書かれていました。
「問うて曰く教主釈尊は[此れより堅固に之を秘す]三惑已断の仏なり又十方世界の国主一切の菩薩二乗人天等の主君なり行の時は梵天左に在り帝釈右に侍べり四衆八部後に聳い金剛前に導びき八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや」
仏教に於いて仏とは大人物で大境涯な理想像とも捉えられていて、それが私達の心の中にあると言われても「ああそうですか」と信じる事は難しいと思います。しかし一念三千ではそれを説き、天台宗ではそれを理解する為に内観行を行い、日蓮はこの文字曼荼羅を末代凡夫の首に掛ける事を考えていました。
これは一体どういう事なのか。
ここからは私の個人的な主観としての話にもなりますが、人生を生きていく中で人は様々な出来事に遭遇します。それは「毀誉褒貶の八風」とも呼ばれていますが、嬉しい事や悲しい事、悔しい事やどうにもならないと感じる事など、様々な事があります。
一方、仏教で仏とは「三世を通暁し三惑已断」と言われています。つまり過去から現在、そして未来への因果の理を理解し、そこで煩悩に惑わされる事が無いという存在です。
人はどうにもならない事があると困惑狼狽します。しかし仏となると困惑しない境涯であるはずですし、「三世を通暁して三惑已断」という境涯であれば、様々な出来事についても、その根本的な原因から結果、そしてどの様な報いを受けるのか。そこは理解出来ているはずなのです。
つまり人とは意識では困惑していても、その意識の奥底にある仏の境涯では人生の上で経験する出来事については充分に理解しているのではないかと思うのです。そして理解しているのであれば、苦悩や問題というのは自ずと解決する方向に進んで行くはずです。
しかしそうは言っても、人というのは一つひとつの事象に右往左往してしまいます。そこで大事になるのは「今在る自分という存在を信じる事」になって来ると思うのです。要は今を生きている自分という存在を、心の底から信じて生きて行ける自分になる事。実は「観心」という事の目的というのは、そういう処にあるのではないでしょうか。
私がこの様に考える様になってのは、五十代も半ばになってからの事です。
二十代から四十代にかけて、自分で出来る事はやって行こう、出来る努力はして行こう。そして祈っていく中で、必ず道は打開できると信じて生きてきました。しかし実際にどうだったかと言えば、恐らく成功体験よりも失敗体験の方が多くありました。
またこの成功体験の中には、創価学会で指導している「祈りは必ず叶う」という事で、必死にお題目を唱えて経験した事もありますが、むしろお題目を唱えても上手く行かないという事の方も多くありました。
しかし四十代で創価学会の信心を止めて、五十代も半ばになって見えて来た事ですが、そこではそれまで経験してきた成功も失敗も、全て今の自分の人生の上では必要だったという事実です。具体的には、物事に失敗した時、そこで出会った人が居たからこそ今の自分があるという経験や、失敗を通して理解した事が後になって役に立ったという事が結構あった事に気付いたのです。
だから今、人生にとって大事な事は、如何なる出来事に遭遇しても、決して自分を裏切らず、どの様な事があっても自分を信じる事だと思うのです。自分を信じる事が出来れば、人は楽観的に生きていけます。
考えてみれば「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経に帰命する」という意義があります。そして妙法蓮華経の肝心とは一念三千だと言います。そうであれば、題目の解釈として「自分自身を信じ切る事」という意義もあるのではないでしょうか。
こういう事も、私にとっての「事の一念三千」に相当する体験だと、今の私は考えているのです。
今の私は、自分を鼓舞する為にお題目を唱える事もあります。しかしそれは「御本尊ちゃま!お願いします!」という祈りではありませんし、祈祷のマントラの様に長時間行うものでもありません。また目先の御利益を求める祈りでもありません。そこには「自分自身を信じる」という事で、言い聞かせる様にお題目を唱えるという姿勢があるだけなのです。
以上、今の私が考えている事を、ここで少し文書化してみました。