自燈明・法燈明のつづり

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大仏(北条)宣時からの弾圧

日蓮の話題に戻ります。

佐渡流罪中に「開目抄」と「如来滅後五後百歳始観心本尊抄」を日蓮は認めましたが、私は開目抄は「人本尊開顕の書」ではなく、日蓮の遺言的な意味あいを持つ書であり、ギリシャに於けるソクラテスの弁明に近いものであると、以前に見解を書かせて頂きました。

龍ノ口の法難を逃れ、一旦は命を延ばしたように思われていますが、開目抄の記事の中でも書かせて頂いた様に、佐渡流罪された後の日蓮は、常に自身の「死」とは背中合わせにいました。

その一つの例として、大仏宣時(北条宣時)が私に御教書を作成し、佐渡の日蓮に弾圧を加えたという事件がありました。この出来事は創価学会の教学の学習でもあまり学ばれる事もなく、佐渡流罪の中に紛れ込んでいますが、かなり大きな弾圧だったのです。

◆大仏(北条)宣時からの弾圧について

北条宣時は、鎌倉幕府の有力御家人で大仏流北条氏の人物です。

日蓮佐渡流罪当時、佐渡国守護であり幕府では引付衆(幕府の裁判官的立場)にいる人物でした。

この弾圧の事については、種種御振舞御書にそのあらましが書かれていますので以下に紹介します。

「又念仏者集まりて僉議(せんぎ)す。かうてあらんには、我等か(餓)つえし(死)ぬべし。いかにもして此の法師を失はゞや。既に国の者も大体つきぬ、いかんがせん。念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者生喩房・良観が弟子道観等、鎌倉に走り登りて武蔵守殿に申す。此の御房島に候ものならば、堂塔一宇も候べからず、僧一人も候まじ。阿弥陀仏をば或は火に入れ、或は河にながす。夜もひるも高き山に登りて、日月に向かって大音声を放って上を呪咀(じゅそ)し奉る。其の音声一国に聞ふと申す。武蔵前司殿是をきゝ、上へ申すまでもあるまじ、先づ国中のもの日蓮房につくならば、或は国をおひ、或はろう(牢)に入れよと、私の下知を下す、又下文(くだしぶみ)下る。かくの如く三度、其の間の事申さざるに心をもて計りぬべし。」

ここでは佐渡の念仏者が集まって謀議を開いた事が書かれています。

恐らく彼らは佐渡の地で日蓮を謀殺するつもりでした。しかし本間氏から「僧ならば法論で決着を着けよ!」と言われ、佐渡の地に東北から北陸中の念仏者等が集まり、日蓮を法論の場で叩き潰そうと画策しましたが、結果、塚原問答では逆に日蓮から完膚無きまで叩かれてしまい、それを見ていた佐渡の人々の中でも、念仏僧の評判はがた落ちになってしまいました。

その事から念仏者から日蓮の方に靡く信徒も多く出始めたのでしょう。この詮議では彼ら自身が、このままで行けば自宗派の門信徒も減少してしまい、それまでの地位等も危険になる事を感じたのではないでしょうか。そこで念仏者の棟梁である唯阿弥陀仏、持斎の棟梁の生喩房、また忍性房良観の弟子である道観等が、急ぎ鎌倉に登り、佐渡国守護である大仏(北条)宣時に泣きついたというのです。

日蓮佐渡の地で、夜も昼も高き山に登りて、日月に向かって大音声を放って幕府を呪咀しており、其の音声は佐渡一国に聞こえている」

これは全くのでたらめな話ですが、そこまで佐渡の地の念仏者等は追い詰められてもいたのでしょう。

この訴えを聞いたのは大仏(北条)宣時ですが、この宣時は日蓮の龍ノ口の斬首でも、時の執権である北条時宗には一切知らせずに独断専行で刑の執行を命じた人物です。そして彼はこの佐渡から来た念仏者の声を聴いて、またここで偽の御教書(幕府からの命令書)を作成して、再度日蓮の弾圧に動きました。

この時の御教書の内容については「法華行者値難事」に残されています。

佐渡国の流人の僧日蓮、弟子等を引率し、悪行を巧(たくら)むの由其の聞こえ有り。所行の企(くわだ)て甚(はなは)だ以て奇怪也。今より以後、彼の僧に相随はんの輩に於ては炳誡(へいかい)を加へしむべし。猶以て違犯せしめば、交名(きょうみょう)を注進せらるべきの由候所也。仍って執達件(しったつくだん)の如し。」

ここでは幕府の命として、日蓮が弟子等を率いて悪行をたくらんでいると聞き及んだが、この内容は甚だ奇怪な行動である。これよりこの僧(日蓮)と行動を共にする輩を厳しく戒め警告を与える事。もし違反する輩が居たならば、その者の名前を幕府へ報告すべし。という内容です。

この御教書により、以降、佐渡の地では日蓮の居所の前を通るだけで牢屋へ入れたり、また日蓮に供養の品物を届けるだけで国を追われ、妻子を奪われたりもしたと言われています。

この様な状況の中ですが、文永10年9月19日に、日蓮は鎌倉にいる日昭や尼御前に対して「弁殿尼御前御書(弁殿並尼御前御書)」には以下の様に記し送っています。

「第六天の魔王、十軍のいくさををこして、法華経の行者と生死海の海中にして、同居穢土をとられじ、うばはんとあらそう。 日蓮其の身にあひあたりて、大兵ををこして二十余年なり。日蓮一度もしりぞく心なし。しかりといえども弟子等・壇那等の中に臆病のもの、大体或はをち、或は退転の心あり。(~中略~)しげければとゞむ。弁殿に申す。大師講ををこなうべし。」

ここで日蓮は、この時に発生した大仏宣時の偽御教書を元にした弾圧も、立教開宗当時から続いてきた法難であると位置づけ、自身は一度も退く心が無いので、門下に対しても、その旨を徹底するためにも日昭に対して大師講を開催して励ましあう様に指示をしたのです。

◆文字曼荼羅について

実はこの当時、日蓮は「佐渡百幅曼陀羅」と後世に呼ばれていますが、約100幅の文字曼荼羅を認めたと言われています。これは観心本尊抄を顕して後、その理論をもとにした文字曼荼羅の図顕を進めていたと言われています。一説には観心本尊抄を認めて後、その妙法曼荼羅を図顕して置かなければ、もし自身の身に何かがあった場合、末法の一切衆生を救済するという宣言をも水泡に帰してしまう事を危惧して、文字曼荼羅を顕したと言いますが、その真意は定かではありません。

この時に約100幅の文字曼荼羅を顕したと言いますが、現存するのは半分にも満たない数になっています。ただその図顕した構図というのは、主に以下の内容となっている様です。

左側は文永10年頃に図顕された文字曼荼羅で、現在は京都の本能寺に所蔵されているものです。そしして右側は文永11年頃に図顕された「朗尊加版本尊」と呼ばれていて平賀本土寺に所蔵されているものです。

文永10年頃には釈迦仏と多宝仏、そして愛染明王不動明王梵字が勧請されているのに対して文永11年頃になると、そこに上行等の四菩薩が勧請される様になりました。

この様に大仏(北条)宣時からの偽御教書の弾圧の中、日蓮は文字曼荼羅の図顕を続けながら、文字曼荼羅について相貌に対する思索をより深めていた事が解ります。

そして文永11年12月頃に図顕されたものが「万年救護御本尊」と呼ばれるもので、こちらは千葉県の妙本寺に所蔵されていますが、この段階になると現在いわれる日蓮の文字曼荼羅の相貌に近いものとなっている事が解ります。

この様に日蓮は、この宣時からの弾圧の最中にあっても自身の法門についての思索を止める事なく、さらなる思索と共に門下への激励などの配慮をも行っていたのです。

あと余談について一つ。

日蓮の文字曼荼羅の中で「佐渡始顕本尊」というのはあると言われています。

こちらは文永八年九月十二日に図顕されたと言われていますが、相貌を拝見すると文永10年以前にこの様な相貌が既に日蓮の構想の中に構築されていたのか、

個人的には疑問が残ります。

この文字曼荼羅身延山久遠寺に所蔵されていたと言われていますが、明治8年の身延大火で焼失し、原本は既に無いと言われています。

この文字曼荼羅の材質は「絹」であった事が、身延山第22代の日達師の「身延山久遠寺蓮祖御真翰入函之次第」に記述されていますが、実は文永11年に顕された天目授与本尊も絹を材質としているので、文永11頃に図顕された文字曼荼羅という可能性もあります。

また文永11年であれば、先の万年救護本尊とほぼ同時期のものであり、この相貌であっても合点が行きます。

その意味からも、この文字曼荼羅を「佐渡始顕」というのは少し違うと考えています。

 

以上が大仏(北条)宣時からの弾圧についての話となりますが、ここで改めて感じた事なのですが、日蓮の情報収集能力というのは、当時では相当高かったのではないでしょうか。何故ならば宣時の弾圧の背景にあった、佐渡の念仏僧などの動向から、その裏に偽御教書があった事、またその偽御教書の内容まで抑えるというのは、中々出来ない事だと思います。

その事を改めて考えた時、例えば蒙古襲来(文永・弘安の役)の予測や二月騒動の予測。また佐渡の地で塚原問答の後、代官である本間氏に二月騒動が近い事を告げたなど、当時からすると「予言者」の様にも見られる節がありますが、やはりそこには日蓮の社会動向に対する洞察力というのが実はあった事を改めて感じいってしまうのです。