自燈明・法燈明のつづり

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自公連立政権の終焉

先ほど速報ベースで以下のニュースを拝見しました。

いやー、やっと自公政権が終わるんですね。

考えてみたら2024年10月27日にあった「第50回衆議院議員総選挙」で自民党は-67議選減らし、公明党も-8議席を減らしました。石破政権が発足後にわずか8日で解散総選挙をやり、結果が自公政権の惨敗でした。

またその後、2025年6月22日の東京都議会議員選挙では、自民党は-12議席と減らし、公明党も-4議席減らしました。

そして先日、2025年7月20日に行った参議院選挙では、改選前と比較して自民党は-13議席減らし、公明党は-6議席減らしました。

前回の衆議院選挙では、それまでの岸田政権の政権で批判される事も多い中であっても、投票率は下落傾向が続きましたが、前回の参議院選挙では前回の参議院選挙よりも投票率は微増していました。これは国民の中で政治への関心が少し上向いた事を指しています。

こう一連の流れを見ていくと、衆議院選挙で一定の民意は「反自公政権」で動いたのですが、自民党公明党は政権を手放す事もありませんでした。しかし自民党の動きを見ていると、次が「極右」と言われていた高市女史が有望視されて来た事もあってでしょうか、それまで批判の嵐だった石破政権が立憲民主や共産党系のリベラル勢力の動きもあってか、若干支持率が盛り返したりしました。

しかし自民党内では「石破総裁では次の選挙では勝てない、議席が減ってしまう」という危惧巻もあったのでしょう。特に参議院選挙では「日本人ファースト」という言葉も一世風靡をしていき、石破政権の煮え切らないというか不法外国人を優遇する様な政策も影響していたと思いますが、そんな中で今回、自民党内の保守勢力が盛り返したのでしょうか、ようやく総裁選にこぎつけて、高市総裁が誕生したんですよね。

しかしこの段になり、公明党が恐らく創価学会からの指示があったのでしょう。(一部中国からの話もあったやの噂話もありますが)いきなり連立離脱となりました。

私からすれば「企業団体献金の規制強化で隔たり」と言いますが、そんな事はかなり前から自公政権に対して言われていた事であり、今さら蒸し返す事なのかと思いました。これは私見ですが、創価学会として高市総裁やその裏にいる麻生副総裁の事が、実は気に入らなかったから「連立離脱」したという事が言われていますが、それが真相なのではと勘ぐってしまいます。

1990年代に高市女史は、創価学会婦人部を裏切ったという話しもありましたからね。「江戸の敵を長崎で」という事ではないでしょうか。

これから日本の政局は流動化しながら、どういった方向に行くのか、そこは現段階では判りませんが、一つ言える事は四半世紀に渡る「自公政権」は終焉を迎えたという訳ですね。

ここで少し自公連立政権の事について振り返りをしてみます。

◆自自公連立政権の発足

自民党公明党が連立を始めたのは1999年10月5日、当時は小渕恵三内閣でしたが、その時に自民党自由党、そして公明党の連立政権として発足しました。これには1998年の参議院選挙で自民党が大敗した事が切っ掛けだったと言われてます。

この当時の私の記憶では、確か前年の1998年頃、当時の自民党総裁橋本龍太郎氏でしたが、私は当時男子部の幹部をしていて、急遽、東京巣鴨にある東京戸田記念講堂に「首都圏男子部幹部会」で集められ、そこで男子部全国幹部から「自民党創価学会に詫びを入れて来た」と聞かされました。

四月会について

今の若い世代は知らない人も多いかと思いますが、1994年には「四月会」という団体が発足していて、これは自民党議員や宗教関係者、そして言論人が参加しての「反創価学会」の団体でした。(四月会=死学会の当て字とも言われていました)

この当時の自民党河野洋平総裁でしたが、当時の自民党は野党であり、政権は非自民・非共産の連立内閣である羽田内閣の時代でした。当時の公明党総務庁長官として石田幸四郎氏(公明党委員長)が参画していましたが、反自民側にいましたし、当時の創価学会は集票力も上昇している時でしたので、自民党としてはそれを揺さぶりをかけるべく「四月会」を使い、様々な反創価学会のキャンペーンを打ってきていました。

この当時は凄いものでした。記憶にあるのは某地方都市の選挙の事ですが、深夜に「反創価・反公明のでっち上げビラ」が大規模団地にばら撒かれたりしていて、私は当時、男子部として夜中に警戒していましたが、別のメンバーがビラ配布の人物を捕まえ、警察に連れて行こうとしました。しかし近隣の交番は全ても抜けの空、当時は元警察官僚の亀井静香氏が中心に構えていたので警察も連携しているのではと疑いもしました。そんな事が日本随所で行われ、マスコミでもキャンペーンの様に様々な「反学会記事」を掲載してもいたのです。

しかしそんな自民党が「創価学会に詫びを入れた」というのが1998年頃に言われたのです。具体的には当時の総理総裁の橋本龍太郎氏が自民党機関誌に創価学会への謝罪記事を書いたというのです。そこから流れが変わってきました。当時の会合でも「これからは自民党とも手を携えていく」という話しもありましたが、私などは「四月会」の関係で一部の自民党支持者との間でも丁々発止していましたので、直ぐに「そうなんですか」という気持ちにはなれませんでした。

そして1999年10月5日の自自公政権小渕内閣へとつながる訳ですが、この時の内閣官房長官として活躍したのは野中広務氏でした。実はこの野中氏が自自公連立政権の設計者とも呼ばれており、彼は1993年の「55年体制の崩壊=新進党による連立政権の誕生」を経験し、そこで政権を失う事へのリスクという事を感じていた人物だったのです。

だから1999年4月に行われた「地域振興券」による政策を通じて、公明党の関係を深めていたと言われています。野中氏が考えていた事は、当時、自民党員の減少に伴う自民党勢力の減退を感じており、そこに公明党の裏にある創価学会の集票力を補完勢力として当て込む事を考えていました。

◆そして自公政権発足

1998年7月30日に発足した小渕自自連立政権ですが、1999年10月の小渕第二次内閣となり自自公連立となりますが、翌年4月には小沢一郎氏の率いる自由党が連立から離脱し、一部が保守党となり内閣に参画、自公保政権へと移行しました。ただこの年の4月2日に小渕総理大臣が脳梗塞を発症し、このときには内閣官房長官であった青木幹雄氏が総理大臣代理として執務を取り行う状況となったのです。その後、森喜朗政権と小泉政権になり、第二次小泉内閣では保守党は解党され、そこから自公二党による連立政権となりました。

自自公から自公連立となりましたが、自民党では当初から公明党との連立を視野に入れていました。しかしそこに「保守色の強い連立」を演出するために、初めに自由党も交えたという説もあり、そこでは自自公政権自由党小沢一郎氏)は当て馬であったのではという説もありました。しかしこれは一つの観方であって正確なものかどうか、そこは未だに判りません。

◆自公連立政権発足当時の組織の状況

さて、自公連立政権が発足して以降、ここから私が肌実感した当時の組織内の状況を書いていきたいと思います。

1999年当時、私は創価学会の中で男子部本部長という立場で居ました。自自公連立政権になった事で、国政選挙だけではなく、例えば地方選挙でも自民党関係者に公明党支援の相談をしやすくなったという状況もありましたが、その一方で旧来からの自民党支持者からは毛嫌いをされていた現状もありました。国政レベルで自公政権で連立を組んでいるとは言え、地方議会レベルでは議席を争う相手方でもあったので、そこはとても微妙な感じでしたね。

またそれまでは公明党の選挙の時だけ、組織内で選挙支援の話があったのですが、自公連立政権になって以降、補欠選挙等があった場合、その自民候補の支援も行うという事にもなりました。これは選挙活動の比率が組織活動の中で増加した事を意味します。

また当初、この動きは組織内では反発がありましたが、幹部達は「良いとか嫌だとかではなくやるんだ!」と不満をにじませる活動家に押していた姿も幾度か眼にしました。

また選挙においても国政選挙で公明党候補者の応援で、自民党議員から「支援者リスト」も共有されるなどもありましたが、一方ではこういった日常の支援活動には何もしない自民党候補者を会合の中で「いつも〇〇さん(公明党候補)がお世話になっている△△さん(自民党候補者)の戦いだから応援しなければダメだ」なんて言って、活動家にF活動(集票活動)させる指導も耳にしましたが、その裏側を観れる位置に居た自分は、げんなりした事も多くあったのです。

小泉政権当時には、創価学会の記念日(5月3日など)に小泉総理大臣から創価学会に祝電が届き、現場の幹部などは「広宣流布が進んだ姿だ」なんて大はしゃぎもしていましたが、私は「公明党創価学会自民党に利用されているのでは?」と冷めた眼で見ていたので、組織の中でも浮き始めた頃でした。

あと自公政権になり、公明党候補の一部にも自民党からの票が投じられる事もあっての事なのか、公明党議員の質(地方議会を含む)も落ちて来た様に感じてもいました。

代表的な例としては2006年に起きた「目黒ショック」というもので、これは市民団体の「目黒オンブズマン」により指摘された事が発端で発覚したものでした。ここでは区議会議員の政務調査費が政務活動とは異なる事に支出されていた問題(自家用車の車検費、カーナビ購入費等)で、公明党の目黒区議団が一斉辞職をしました。

あと公明党の国会議員でも、様々な横柄な姿勢が指摘される事も耳にする事が多くなりました。(ここで詳細は割愛します)

またそもそも公明党とは「護憲政党」であったはずが、2015年の安保法制当時、公明党遠山清彦(当時)議員が日本会議憲法フォーラムにおいて、櫻井よしこに「創価学会婦人部の方々に改憲を説得できますか?」と聞かれ「説得する自信はあります」と答えた事も、当時は大きな物議を醸しました。

創価学会では長年に渡り、今の日本国憲法を護り、憲法第九条を護ると言ってきましたが、組織内でも深い議論すら為されず、そればかりか現役の公明党議員が公式の場でこの様な発言をした事が大きな波紋を呼んだのです。

実際に一部の男子部有志が「安保法制賛同の署名活動」を行い自民党本部に直接署名簿を提出する事も行われており、当時の私はこの活動を行った本人とやりあった事もありましたが、本人からは「学会本部の某副会長から指導は受けている」と聞いたのです。

これらの動きについては慶応大学の憲法学者小林節教授も警鐘を鳴らし「現行憲法を空文化するのか」という指摘も創価学会にあり、またそれまで池田大作氏と懇意にしていた平和学者のガルトゥング博士も池田氏に警告の書簡を送った事は有名ですが、池田氏からガルトゥング氏への回答は一切為されませんでした。

それまで聖教機関紙には、何かと平和博士のガルトゥング博士を取り上げていたのですが、それ以降は無かった様な扱いとなり、先の遠山清彦氏も一応「平和学博士」をとっている立場でしたが、ガルトゥング氏の事を「老いた老人の言葉」と揶揄してもいたのです。

これは消費税についても同様で、それまで野党に居た時には社会党(現立憲民主党なども該当するかも)や共産党とも共闘して「消費税は悪だ!」と徹底していた公明党ですが、政権与党い入ったら「現実的な政策転換」という言葉で一転して消費税容認をしても来ました。

また最近では昨年からあった米価高騰を受け、古古米放出で公明党は大騒ぎし、小泉農水相に交代してから実現した古古米放出を、まるで自分達の実績に様に誇りだし「コメ助」なんてキャラクタまで作り、ネット上でも「#RICE」というハッシュタグをつけてお祭り騒ぎをしていましたが、では今世の中を見てみると、銘柄米の値段は一向に下がりもせず、古古米放出も止まっています。

要は公明党の政治家のレベルですが、以前はそれなりの人物も居た様に見えてもいましたが、政権与党に参画してからは「化けの皮がはがされたのか?」と思う様な劣化した姿が目に付くようになったと感じています。

いま公明党は支持団体の創価学会組織力衰退も相まって、集票力の下落が止まらなくなっています。そんな中で、公明党としては次期の支援拡大のツールとしてSNSを考え、各議員は行動している様に見えますが、果たしてその取り組みがどこまで功を奏するものになるのでしょうか。

私は前回の衆議院以降、公明党議員は意識をしてSNSを利用している姿が見えていますが、そこでも凋落傾向に歯止めがかかっていないので、この先も集票力の下落は止まらないと見ています。

今回は公明党から自民党に「三行半」を突きつけた形をとりましたが、今回公明党がやらなかったとしても、創価学会の集票力が下落すれば、どこかのタイミングで自民党側から切られていたかもしれません。そして今回の政権離脱から、公明党創価学会の周辺でどの様な動きが出てくるのでしょうか。そこは注視していきたいと思っています。

恐らく、これからの世界では、宗教団体の活動により国政に出る政治家は不要な時代になっていくでしょう。そういう意味からも今回の自公連立政権の終焉は、日本の政治の大きな変化の兆しなのかもしれませんね。