
さて、前回の歴史の記事では日米和親条約について取り上げました。
徳川幕府がアメリカとの間で日米和親条約を締結すると、他の帝国列強が相次いで条約締結へと動き出してきました。これにはロシアやイギリス、オランダやフランスなどが遅れをとるまいと次々に交渉の開始を求めて来たのです。そして幕府はイギリスとロシアとの間でも和親条約を締結しました。
日米和親条約については、学校の歴史でも学びますが、後につづくイギリスやロシアとの間の和親条約については、私自身、学校で教わった記憶がありません。
まず日英和親条約について確認をしてみます。
こちらの条約は1854年3月の日米和親条約に続くもので、1954年10月14日(嘉永7年8月23日)に長崎の地で締結されました。条約の主な内容は、長崎と函館にイギリス船の寄港地を開港する事、そして薪や水、そして食料などの供給を認める内容でした。ただこの条約の署名者(締結者)が、イギリス側ではジェームズ・スターリング(東インド・中国艦隊司令官)であり、日本側では水野忠徳(長崎奉行)と永井尚志(目付)で、ジェームス・スターリングはイギリス側で外交権限を持っておらず、ロシア艦隊を追って長崎に寄港した際に交渉が始まった様です。この条約について、イギリス側では締結後に追認するという事で、後に外交的に有効としました。
次に日露和親条約について、同じ様に確認をしてみます。
こちらの条約は1855年2月7日に締結されました。主な内容としてはロシア船の寄港地として函館、下田と長崎の開港を認める内容で、ロシアの軍人・外交官であるロシアのエフィム・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチンと幕府の外交などを担当していた幕臣の川路聖謨の間で締結されました。この条約では北方領土に関して取り決めをしており、ここでは択捉島とウルップ島の間を日露国境として定めた事で、後の「樺太・千島交換条約」へとつながり、現在の北方領土問題の起点ともなった条約です。
なぜこの当時(1850年代、19世紀末)に、多くの外国が日本に対して押し寄せてきて、条約の締結と開国を求めてきたのでしょうか。ある書籍(すいません、書籍名や著者名などは失念してしましましたが)によれば、当時の日本はインドや中国の様に、特に大きな市場があった訳でもなく、ましてや資源等は昔から乏しい島国でした。そんな島国に何を求めて諸外国は来たのか。そこには各国の帝国主義的な拡張の思惑があり、特に東アジアに対しての進出が加速していた時期だった事が背景にあったと言います。
こと日本に対してはこの当時、「占領」というよりも、東アジアに対する橋頭堡として、軍艦や商船などの寄港地や中継拠点としての役割を求めていた様に思われます。ただしロシアに関しては北方領土をめぐる幕府との利害関係もあったようです。
この連鎖的な条約締結は、外圧による開国の必然性と、幕府の外交的柔軟性の産物とも言われていますが、ペリー来航はその「日本の扉を開ける鍵」の様なものであり、他国との条約については「その扉を押し広げる力」となりました。
当時の江戸幕府としては、欧米列強との間で軍事力の格差は認識していたので、「戦争を避ける」「国益(幕府益)を護る」という姿勢を示す事で、日本国内における統治者としての正当性を朝廷や各諸藩に示す事を考えていた様ですが、結果としてこういった行動がこの先で「安政五カ国条約(米・英・仏・露・蘭)」へと発展していき、日本国内で尊王攘夷運動へと火をつけていく事へとなって行ったと言われています。