自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

東インド会社とムガル帝国の滅亡

いま日本国内では、自公連立政権の崩壊の話題で持ち切りになっています。

そこの議論の中で「高市総裁は極右だ」という意見や「高市総裁になれば戦争へと突き進む日本になる」という言動も多く見受けられます。

しかし国家間の戦争とは、そんな単純な絵図で説明できる物ではないのです。もしそれほど単純であれば、人類史はこれほどまでに戦争の歴史、征服と服従の歴史として彩られていません。平和を語る人は、まずそこを認識する必要があると私は考えているのです。単純に戦争という行為を国家が放棄しても、戦争自体を防ぐことは出来ないのです。

そういう事で、今回は日本の幕末の歴史を知る上で、その周辺の歴史について少し書いてみます。

◆インド・ムガル帝国について

インドのムガル帝国の滅亡と、イギリスの東インド会社の関係を調べてみると、そこには近代帝国主義の実態と、そこでアジアの国々がどの様に植民地化をされていったのかが垣間見る事が出来ると思います。

インドのムガル帝国は、1526年、バーブル(ザヒールッディーン・ムハンマドバーブル)がパーニーパットの戦いでロディー朝を破り建国されました。最盛期はアクバル皇帝在位の1556年から1605年、シャー・ジャハーン(タージ・マハル建設)、アウラングゼーブ(在位1658年~1707年)の頃と言われています。

一方のイギリス東インド会社は1600年にエリザベス一世の勅許により設立され、主にアジアの貿易を担う会社として設立され、主に香辛料や絹、綿織物の貿易を扱っていました。

1600年頃の欧州では、王侯貴族は生肉を食する事が多く、その為に香辛料の需要があった事から、その輸入を行う会社でもあったそうです。この東インド会社はこの時代、現地政権とは協調していて、貿易特権の獲得が中心で活動をしていて、現地で軍事的な介入は最小限であったと言います。

この頃の日本は関ヶ原の合戦をしていた時期ですね。

しかし1700年段中盤となる頃、ムガル帝国の衰退が始まり地方政権が分裂を始めました。(マラーター、ベンガル太守など)そして一つの転機が訪れます。それがプラッシーの戦いでした。

プラッシーの戦い

このプラッシーの戦いは1757年6月23日に勃発しました。その背景にはムガル帝国の衰退により、地方政権(太守)が帝国からの独立傾向を強めていました。その状況の中でベンガル太守のシラージュ・ウッダウラは、フランスからの支援を受けて、イギリス東インド会社の通関特権乱用に反発し、カルカッタにあるイギリス商館を襲撃し、占領してしまいます。この時、イギリスの東インド会社軍(会社が軍事組織を持っていたのも今から見たら驚きですが)の指揮官であるロバート・クライヴが、この太守軍の将軍であるミール・ジャーファルと密約を結び、この戦闘中に裏切りをさせます。太守軍は兵力では東インド会社軍には圧倒的優位を持っていましたが、この裏切り行為によって指揮系統に混乱が生じてしまい、結果として敗北してしまいます。

結果、イギリスの東インド会社軍はわずかな損害で、圧倒的な勝利をおさめ、ミール・ジャーファルを新たなベンガル太守として据える事に成功するのです。

◆イギリスの東インド会社の影響力拡大

この戦争の結果、ベンガル太守はイギリスの傀儡政権となり、実質的にベンガル地域はイギリスの支配地域となり、この地域の徴税権もイギリスの東インド会社が掌握しました。併せてそれまでフランスもインドに影響力を持っていたのですが、それを大きく削ぐことに成功したのです。そしてそれ以降、イギリスは「商業活動の安全確保」を理由として軍隊を常備し、この軍事的手段で政治的な影響力を拡大していきました。

そして1800年代になると、イギリスは東インド会社を前面に出し、次々と地方政権を併合していきました。代表的な事としてマイソール戦争やマラータ戦争という事がありました。そして土地税制度や司法制度、また教育制度などの整備などを進めていきます。

そんな中で1858年に「インド大反乱」が発生します。これはイギリスの東インド会社の支配に対する大規模な反乱でした。

この大反乱は1857年5月10日にメートラで発生しますが、それは東インド会社に雇われていたインド人兵士(シパーヒー)が、新式銃の弾薬包に使われていた牛脂・豚脂に宗教的な嫌悪感を示し氾濫を起こしたのです。当時のインドではヒンズー教徒とイスラム教徒がいましたが、ヒンズー教では牛は神聖な動物であり、イスラム教では豚は不浄な動物として扱われています。

そしてこの反乱は瞬く間にデリー、カンプール、ラクナウ、ジャーンシーへと拡大していき、約2年の間、イギリス軍と現地の忠誠勢力(シーク教徒や藩王国)との間で抗争が続き居ました。この激戦の中では民間人にも多くの犠牲者がでて、推定で約10万人以上の現地人の犠牲者があったと言われています。この大反乱ではイギリスの東インド会社軍では対応不能となったため、イギリスは本国軍を投入して鎮圧をしました。

このインド大反乱の結果、ムガル帝国バハードゥル・シャー2世が退位・追放され帝国は滅亡となり、イギリスの東インド会社も統治責任を問われ1858年に解散されました。その後、インドはイギリス政府の直轄植民地となりインド帝国となりました。そしてイギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝の座に就いたのです。

そしてインド帝国では、より慎重な宗教政策や文化的配慮が行われる事となりましたが、イギリスからの支配は一層強化される事となりました。

帝国主義の三段階モデル

このインドにおけるイギリスの動きは「帝国主義の三段階モデル」とも呼ばれています。内容はまず現地会社として企業が現地で活動を始めます。今回はこれを東インド会社が担いましたが、そこで貿易特権などを抑えて利権の獲得を行います。次に企業と傭兵軍により武力を背景にした条約締結などを進め、そこで安全保障の名目の下で影響力を強めていきます。そして現地で混乱などが起きると、そこで本国軍を投入し、行政権や法制度などを制定し、植民地支配へと進めていくのです。

この背景には資本主義の論理があり、そこでは利益追求の為には市場・資源・労働力の安定化が必要になるので、そこは軍事力を使用して確保し、そこに国家の代理として民間企業が参入し、国家がそれを後押しするという動きがあります。そしてその背景には「白人の責務」として、支配を正当化する文化的・宗教的なイデオロギーが存在し、一連の行動を正しい行動として推し進めていくのです。

この帝国主義の三段階モデルは、イギリスだけでなく、オランダはインドネシアで、フランスはインドシナで採用しており、文明開化を終えた明治期以降の日本も、このモデルを採用して植民地化を展開していったのです。