自燈明・法燈明のつづり

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佐渡流罪の赦免

 

日蓮佐渡流罪され、塚原三昧堂に入ったのが文永八年(1271年)11月1日でしたが、文永十一年(1274年)3月8日に幕府からの赦免状が、佐渡の地へ届きます。この事については種種御振舞御書に以下の様に書かれています。

「かくの如くして上へ此の由を申されければ案に相違して去る文永十一年二月十四日の御赦免の状同三月八日に島につきぬ」

ここで「かくの如くして上へ此の由を申されければ」とは、先の記事に書きましたが大仏(北条)宣時の偽の御教書により、佐渡の地で日蓮に対する迫害が起きている状況にも関わらずという事で、日蓮の赦免状が幕府から届いたのです。

何故、日蓮佐渡流罪を赦免されたのでしょうか。

恐らくその背景にあったのは「文永の役」があったと私は考えています。
日蓮立正安国論で「自界叛逆難」と「他国浸逼難」の二難について予見しました。これについては前の立正安国論の記事にも書きましたが、これは何も日蓮の持つ超人的な能力により「予言」したものではなく、恐らく当時の鎌倉等で日蓮が情報を収集し、分析した結果、経典の内容とも合致したので「予見」したものであると思います。

そしてこの二難のうち、「自界叛逆難」については、文永九年(1272年)2月11日に「二発騒動」として起きました。この時の事について種種御振舞御書には以下の様に書かれています。

「二月の十八日に島に船つく、鎌倉に軍あり京にもありそのやう申す計りなし、六郎左衛門尉其の夜にはやふねをもつて一門相具してわたる日蓮にたな心を合せてたすけさせ給へ、去る正月十六日の御言いかにやと此程疑い申しつるにいくほどなく三十日が内にあひ候いぬ、又蒙古国も一定渡り候いなん」

これは2月18日に佐渡島へ着いた船で、代官である本間氏に二月騒動の事が伝えられましたが、それを聞いた本間氏は日蓮に正月の塚原問答で日蓮から、近々鎌倉で騒動が発生すると聞いていましたが、実は少し疑っていた事を明かし、それから程なくして今回の騒動が起きたので、恐らくこの先に蒙古国の襲来も来るのであろうから助けてほしい、という事を言われたとあります。

恐らく佐渡島の代官である本間氏もこの様に狼狽したという事は、鎌倉幕府の中でも日蓮の存在は大きくなっては居たと思いますが、それでも佐渡流罪を赦免する程の事では無かったのでしょう。

この当時もそうですが、一般的に流罪とは、罪人とされた人物は一生その場所に閉じ込められ生涯を終える事になっています。日蓮についても鎌倉幕府佐渡流罪し、そこで生きようが死のうが、そこにはあまり関心は無かったと思います。だから大仏宣時が偽の御教書を作り迫害しても、宣時が何ら不利益を被る事も無かったのでしょう。

しかしそこに日本史上初の国難とも言うべき「文永の役」が具現化して来たのです。

文永の役について

これは皆さんも学校の歴史の授業で習った事だと思いますが、これはモンゴル帝国の建国から始まります。

モンゴル帝国はチンギス・ハンにより1206年に建国され、初めはモンゴルの弱小部族の長であったチンギス・ハンは、建国後に瞬く間にユーラシア大陸を席巻し、世界最大の陸上帝国を建国しました。1227年にチンギス・ハンは死去しますが、その広大な帝国はその息子たちに割譲される事になりました。

その中で帝位継承戦争が1260年に勃発し、クビライとアリクプケが争い、その結果アリクプケが幸福し、1271年のクビライが「元」を建国し首都を大都(北京)に定めました。ここから中国支配を本格化すると共に周辺国に対して侵攻を進めていったのですが、それが日本に向けられ日本ではこの事を「元寇」と呼んでいます。

まだ元の建国前の話となりますが、第四代のカン(王)であるモンケの時代、1231年の頃から高麗(朝鮮)にモンゴル帝国は侵攻を始めました。そして1259年に高麗はモンゴル帝国に降伏しました。この当時、モンゴル帝国南宋(中国南部)とも戦争をしていましたが、この南宋を征服するためにも、東にある日本を支配下に置く事が重要だと考えていた様です。

文永五年(1268年)の1月に、元(クビライ・カンの国)は高麗に対して日本に使者を遣わす様に命じました。そして高麗の使者は大宰府(現在の福岡県太宰府)にやってきて、そこを治めていた御家人の少弐氏に「大蒙古国皇帝奉書」という国書を渡しました。

日本ではこの年の3月に、若干18歳で北条時宗が幕府執権に就任したばかりでした。この当時、内政については鎌倉幕府は所掌としていましたが、外交については朝廷が担当する事だったので、この国書は朝廷へと送られました。しかし朝廷でもこの国書について紛糾し、結論は「返事をしない」という事で無視をする事としたのです。

日本から明確な返書が来ない事で、モンゴル帝国は高麗に対して再度使者を日本に送る事を命じましたが、高麗としても日本への侵攻はあまり良い話にはならないので、使者を送る事を拒みました。しかしモンゴル帝国から五度目の派遣要請に、趙良弼という自国の官僚を選びました。そして趙良弼は100人あまりの部下と一緒に太宰府へやってきます。国書の返事を待つために、趙良弼は1年ほど日本に滞在したといいます。

しかしここでも日本から返書を貰えなかった事から、モンゴル帝国として武力により日本への侵攻を決定しました。

当時の鎌倉幕府としても、恐らくこういった高麗の動きやモンゴル帝国の使者の動き、また南宋や高麗からの商人等の情報も勘案して武力侵攻が近づいている事を感じていたと思います。その事から、今後の対策を検討する上で、日蓮佐渡島への流罪を赦免し、鎌倉へと呼び戻したのではないでしょうか。

佐渡島から鎌倉への道中

佐渡からの道中、日蓮は様々な処で命を狙われてもいたようですが、種種御振舞御書にはこの様に書かれています。

「又越後のこうより兵者どもあまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力及ばず、」

ここは信州の善行寺周辺を通過した時の様子について書かれていますが、ここで「兵者ども」とある様に、日蓮の周辺は厳重に警護をされていたので、通過する地域で日蓮を害しようとした者たちも手が出せない状況であったようです。

「三月十三日に島を立ちて同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。」

これは種種御振舞御書の一説ですが、13日ほどの行程で日蓮は鎌倉へ戻る事が出来ました。そしてここで「打ち入りぬ」とある様に、幕府との面会に対して日蓮は、並々ならぬ決意で臨んだ事が伺えます。