自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

三度目の諌暁

日蓮佐渡流罪を赦免され、幕府に呼び戻されました。そしてこの後に相対したのは平左衛門尉頼綱でした。

この平頼綱は北条得宗家の内管領(執事)として北条時宗の側近に居て、日蓮を迫害した人物でもありました。

この時の状況について、日蓮は種種御振舞御書に書いていますので、その内容を見てみたいと思います。

「同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきにはにるべくもなく威儀を和らげてただしくする上或る入道は念仏をとふ或る俗は真言をとふ或る人は禅をとふ平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ一一に経文を引いて申しぬ」

面会したのは四月八日の事でした。ここで平頼綱は威儀を正し物腰柔らい態度であったと言います。これは正式に幕府の代表した立場で居たと言う事なのでしょう。そしてこの場には多くの人が参集していた事が伺えます。この場で参加していたある入道(僧侶)は日蓮に対して念仏の事を問い、ある在俗の人は真言の事を問い、またある人は禅の事について日蓮に問うたと言います。そして平頼綱は爾前経の教えによる成仏の有無について問うてきたと言うのです。これらの質問に対して日蓮は経文を一つ一つ引いて答えていきました。

「平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なりそれにとつては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし、真言師だにも調伏するならば弥よ此の国軍にまくべし穴賢穴賢、真言師総じて当世の法師等をもつて御祈り有るべからず各各は仏法をしらせ給うておわさばこそ申すともしらせ給はめ」

続いて平頼綱は幕府の使いの立場として「蒙古国は何時頃日本に攻めてくるのだろうか」と質問をしてきました。それに対して日蓮は「年内には必ず攻めてくるだろう」と答えます。そしてこの事は前から申してきた事だが幕府として用いて来なかったと指摘します。それは病気になった人を病気の事を知らない人が治療すれば悪化する様なもので、いよいよ状況はひどくなると指摘しました。そして真言師に調伏させるならばいよいよこの国は戦さに入っていくだろうと言いました。この真言師や総じて当世の僧侶等にも調伏をさせてはならない事は、仏法を知っているなら解る事だとこの場で日蓮は述べたのです。

「又何なる不思議にやあるらん他事にはことにして日蓮が申す事は御用いなし、後に思い合せさせ奉らんが為に申す隠岐法皇は天子なり権大夫殿は民ぞかし、子の親をあだまんをば天照太神うけ給いなんや、所従が主君を敵とせんをば正八幡は御用いあるべしや、いかなりければ公家はまけ給いけるぞ」

またここで「如何なる不思議か」と前置きして、他の人の事は用いる事があっても日蓮が述べて来た事は一向に幕府は用いようともしなかった事を指摘し、これは後になって思い返して頂く為に申し上げると前置きし、承久の乱の時の事について述べるのです。
承久の乱では、隠岐法皇後鳥羽上皇)は天皇であった人であり、権太夫北条義時)は臣下に過ぎなかったと言い、もし子(臣下)が親(天皇)を恨むような事があれば、天照大神がそれを受け入れる事があるのだろうか、また家来が主君を敵にする様な事があれば、八幡大菩薩はそれを助けるのかと指摘します。しかしながらそんな戦いで武家に朝廷方は負けてしまったのだと言います。

「此れは偏に只事にはあらず弘法大師の邪義慈覚大師智証大師の僻見をまことと思いて叡山東園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人とて其の失還つて公家はまけ給いぬ、武家は其の事知らずして調伏も行はざればかちぬ今又かくの如くなるべし、ゑぞは死生不知のもの安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頚をばゑぞにとられぬるぞ、是をもつて思うに此の御房たちだに御祈あらば入道殿事にあひ給いぬと覚え候、あなかしこあなかしこさいはざりけるとおほせ候なとしたたかに申し付け候いぬ。」

実はこの事は只事では無い事であり、それは弘法大師の邪義や慈覚大師や智証大師の辟見を正しい事と信じた比叡山園城寺の僧侶達が、鎌倉の事を恨んだ(調伏した)結果、還著於本人として公家にその失が還ってしまい負けたのであると言い、そしてこの事は武家達は知らないし、逆に調伏もしなかったらか勝ったのであろうと言ったのです。そしてそれと同じ事が今回起ころうとしているのであると指摘しました。

また続けてここで蝦夷(当時は北海道あたりにいた人々)の人は生死の理も知らぬ野蛮人であったが、それを攻めた北条家の御内人である安藤五郎は仏教を信じ、多くの堂宇を供養した人物でした。しかし何故蝦夷の人達に安藤五郎は首を取られたのかと言い、こういった事から考えてみても、ここにいる僧達が祈祷をすれば入道殿(幕府方)が災いに逢う事は間違いないだろうと言ったのです。

日蓮平頼綱と面会しこの様に主張しましたが、これが「三度目の諌暁」とも言われています。

この平頼綱との面会から時を経ず、幕府の動きがありました。その事について日蓮は続けて書いています。

「さてかへりききしかば同四月十日より阿弥陀堂法印に仰付られて雨の御いのりあり、此の法印は東寺第一の智人をむろ等の御師弘法大師慈覚大師智証大師の真言の秘法を鏡にかけ天台華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり、それに随いて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず雨しづかにて一日一夜ふりしかば守殿御感のあまりに金三十両むまやうやうの御ひきで物ありときこふ、」

日蓮と面会した二日後の四月十日から、阿弥陀堂法印という僧に幕府は命じて雨ごいを行わせました。この法印は京都の東寺第一の智者と呼ばれ、室の師匠たち―弘法大師や慈覚大師、智証大師-の真言密教の秘法を鏡の様にあきらかにし、天台宗華厳宗等の諸宗の教義も全て胸に収めている人物です。その法印による祈雨が十日から始まり、そして十一日には大雨が降りました。この時、風も吹かず雨は静かに一日一晩降り続きました。幕府はこの事を感動し、金三十両と馬や衣服など多くの引き出物を法印に渡したと言うのです。

鎌倉中の上下万人手をたたき口をすくめてわらうやうは日蓮ひが法門申してすでに頚をきられんとせしがとかうしてゆりたらばさではなくして念仏禅をそしるのみならず、真言密教なんどをもそしるゆへにかかる法のしるしめでたしとののしりしかば、日蓮が弟子等けうさめてこれは御あら義と申せし程に日蓮が申すやうはしばしまて弘法大師の悪義まことにて国の御いのりとなるべくば隠岐法皇こそいくさにかち給はめ、をむろ最愛の児せいたか(勢多迦)も頚をきられざるらん、」

これを見ていた鎌倉中の人々は、上下万民手を叩き口をすぼめて笑う様は「日蓮が間違った教えを説き、もうすぐ首を切られるだろう」と言っている様でした。もし日蓮が揺れ動いていたら、この様になってはいなかったでしょう。でも念仏宗禅宗をそしるだけでなく、真言密教などもそしった為に、こうした法の験が現れたんだとも人々は騒いでいました。
またこれを聞いた日蓮の弟子達も驚き「これは仏法の不思議な働きだ」と言いましたが、日蓮が言うのは少し待て、もし弘法大師の悪義が正しく、国を護る祈りにふさわしいのであれば、隠岐法皇後鳥羽法皇)は戦に勝っていたはずであり、大切に育てられた最愛の子である勢多迦も首を切られる事は無かったのである。

「此れは一定やうあるべしといゐもあはせず大風吹来る、大小の舎宅堂塔古木御所等を或は天に吹きのぼせ或は地に吹き入れ、そらには大なる光り物とび地には棟梁みだれたり、人人をもふきころし牛馬ををくたふれぬ、悪風なれども秋は時なればなをゆるすかたもあり此れは夏四月なり、其の上日本国にはふかず但関東八箇国なり八箇国にも武蔵相模の両国なり両国の中には相州につよくふく、相州にもかまくらかまくらにも御所若宮建長寺極楽寺等につよくふけり、ただ事ともみへずひとへにこのいのりのゆへにやとおぼへてわらひ口すくめせし人人もけうさめてありし上我が弟子どももあら不思議やと舌をふるう。」

少し本文について省略しますが、もし阿弥陀堂法印が日蓮に勝つ事があれば、雨を降らせた龍王法華経の敵である事を述べ、これには何かあると思っていた処、大風が吹いていたといいます。これによって大小の家や堂宇などは天に吹き飛ばされ、地に倒れ、そらには大きな光物が飛び地には建物の梁や柱等が乱れており、人々を吹き殺しや牛馬も多く倒れる状況となりました。この様な悪風も秋ならばあり得る事だが、今回は四月の事であり、その上に日本国内には吹かず、ただ関東八カ国で、その八カ国の中でも武蔵国相模国の両国、そして両国の中でも相州で強く吹いたと言います。また相州も鎌倉で、鎌倉の中でも御所と若宮通り、建長寺極楽寺等が特に強く吹いたと言います。そしてこの事から、これは只事ではなく阿弥陀堂法印の祈りの為と思われはじめ、人々の興も覚め、日蓮の弟子たちも誠に不思議な事だと舌をふるったと言います。

 

日蓮平頼綱を通して幕府に対して、これで諌暁を行ったのは三回でした。

一度目は最明寺入道(北条時頼)に対して立正安国論で諌暁した事。二度目は龍ノ口の首の座の際に平頼綱に対して、そして今回も平頼綱に対して諌暁を行いました。

「本よりごせし事なれば三度国をいさめんにもちゐずば国をさるべしと、されば同五月十二日にかまくらをいでて此の山に入る」

ここで日蓮は「本よりごせし事」と、元々考えていた事でもあったと言い、三度国を諫めても用いなければ国を捨て去る事を考えていたので、五月十二日に鎌倉を出て「此の山」とありますが、身延山へ入る事にしたのです。

そしてこの年の11月(文永十一年-1274年)に、元と高麗の連合軍が対馬壱岐、そして博多へと侵攻してきます。いわゆる文永の役が始まったのです。