
安政元年(1854年)に江戸幕府はアメリカやイギリス、ロシア等と和親条約を締結しました。それまで「鎖国」と言われていましたが、これは外交や交易を江戸幕府(徳川家)が独占していた事で、その海外との交易も長崎の出島に限定をしていました。しかしこの和親条約によって江戸幕府は当時の帝国列強に対して譲歩し、幾つかの港を開港しました。
その後、安政二年(1855年)に江戸幕府はオランダ軍人による海軍伝習所を長崎に開き、海軍の創設に向けた動きをし始めました。これは恐らく幕府として対外的な脅威を感じたからこその動きだったと思われます。
そして安政五年(1858年)に江戸幕府の大老に彦根藩の井伊直弼が就任します。

井伊直弼が大老に就任する前、安政三年(1856年)にアメリカの総領事としてタウンゼント・ハリスが下田に着任します。先にアメリカと締結した日米和親条約では、主にアメリカとして捕鯨の為の補給基地として日本を見ていました。だから和親条約では貿易に関する取り決めは行っていなかったのです。
ここでハリス氏は当時の老中の首座にいた堀田正睦と通商条約の交渉を開始しました。ハリスとしては日本と貿易をやりたいと考えていた様です。
ここでハリスはアジアに勢力を伸ばし始めたイギリスの危険性を堀田にアピールをしました。恐らくインドのムガル帝国の件や、アヘン戦争等について説明し、そこでアメリカとしては日本に対して貿易しか望まない事を主張し、今のうちにアメリカと貿易に関する条約を締結した方が日本にとっても得策であると説得をしたのでしょう。しかしその後、アメリカ国内で南北戦争が勃発してしまったので、日本との貿易処ではなくなってしまいます。しかしこの時、老中の堀田正睦はハリスの話を聞いて、アメリカとの貿易を進めた方が、江戸幕府にとっても得策だと考える様になり、通商条約の締結に向けて動く事を検討し始めたようです。
堀田政睦はアメリカとの通称条約の締結に向けて孝明天皇に勅許を求めました。当時、幕府は内政に関する権限はありましたが。外交については朝廷がその権利を有していました。しかし孝明天皇は「攘夷思想」に基づき、外国との通商を強く反対しました。そして幕府は勅許を得られずに、政治的に行き詰ってしまったのです。
井伊直弼は1815年に彦根藩主の14男として生まれましたが、元々彦根藩の藩主になるとは誰からも思われていませんでした。しかし1846年に藩主であった兄の直亮の養子が亡くなった事から藩主の座に就く事になりました。
時代劇などでは何かと「悪役」として描かれる直弼ですが、実際には民のために政治を行った名君と呼ばれていて、徐々に幕政に関わる様になっていきました。
1853年に幕府は開国を迫られる中で、国内では開国に反対する強い声があがってもいましたが、当時の武力では日本はアメリカなど列強の要求を飲まざるを得ない状況でした。その中で平和的に開国が進められる事を期待され、井伊直弼は老中の中から更に権限のある大老に抜擢され就任したのです。
井伊直弼が大老に就任された頃、幕府は第13代将軍の徳川家定が薨去し、その後継問題にも直面していた時期でした。井伊直弼はその後継として紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)を推挙していましたが、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉彬は一橋慶喜(徳川慶喜)を推挙するという騒動の中に幕府はありました。
アメリカとの修好通商条約は、井伊直弼が独断で締結したと言われていますが、近年の研究では、この独断で締結というのは、どうも違うのではないかと言われています。
アメリカ総領事のハリス氏は、この当時「今すぐ条約を締結するのであれば、イギリスやフランスの強硬要求もアメリカ側で調停しよう」という事を提案してきました。実はこの時期にアメリカだけでは無く、イギリスやロシア、フランスからも通商条約の要求が幕府に届いている状況だったのです。
このハリス領事からの提案を受けて、江戸城で井伊直弼を中心にして幕閣による評議が開かれましたが、そこでは大多数が調印に賛同する意見でした。この際、井伊直弼は「勅許を得るまで調印は延期すべきである」と主張をしていましたが、その一方で「もし交渉が行き詰まってしまってはやむおえない」と容認の言葉を述べたのです。
この井伊直弼の言葉を受け、この時のハリス領事との交渉役であった井上清直と岩瀬忠震は「調印承諾の言質を得た」と判断し、6月19日にアメリカ軍艦のポータハン号に居たハリスの許へ行くと、その日の内に日米修好通商条約が調印されたのです。
この勅許を得られぬまま条約調印が行われた事態を聞き、井伊直弼は大老辞職の意思を宇津木景福ら側近に漏らしましたが、宇津木らより「いま辞職すれば一橋派を利するだけである」と諫言されて翻意したと言われています。
つまり井伊直弼は将軍の後継問題に直面する中、アメリカからの通商条約に関する圧力にも直面していたので、その中で、幕府の現場交渉の結果として勅許無しで日米修好通商の締結の流れになってしまったというのが実態の様です。そしてその後、オランダ・ロシア・イギリス・フランとも同様の条約を幕府は結ぶ事となり、これを「安政の五ヶ国条約」と総称しています。
これら修好通商条約は、日本にとっての不平等条約であり、その事からこれ以降、日本国内に「尊王攘夷」の運動が嵐の様に吹き荒れていくのです。
◆安政の大獄
この大老の井伊直弼が勅許を得ないままで日米修好通商条約を締結し、また将軍家の後継問題が徳川家茂に決定した事で、これら諸々の幕政に対して反対した者たちへの弾圧が行われましたが、これを安政の大獄と言います。
この時、弾圧されたのは尊王攘夷派や徳川家茂に対抗した一橋派の大名や公家、志士と呼ばれる活動家たちでした。この事に連座したのは100人以上に上ったとされ、形式上は第13代将軍の徳川家定が命令を発して全ての処罰を行ったとされていますが、実際には井伊直弼が全ての命令を発したとされていて、将軍家定の命令として行われたのは、家定死去の直前である7月5日に、尾張家の徳川慶勝、福井藩主の松平慶永、水戸藩の徳川斉昭ら、慶篤父子と、後に最後の将軍となる一橋慶喜に対する隠居謹慎命令だけであり、安政の大獄初期のものに限られていました。
この安政の大獄により、安政七年(1860年)3月3日、桜田門外の変において井伊直弼が殺害され、この安政の大獄も収束しますが、これにより幕府の規範意識が低下し、人材の欠如も招く事になり、結果として反幕府派による攘夷活動を活発化させてしまったのです。