
日蓮は平左衛門頼綱からの評定の場で、三回目の諌暁を幕府に行いました。しかし後幕府を阿弥陀堂法印による雨乞いを命じた事で、中国の故事に寄せて「三度国をいさめんにもちゐずば国をさるべし」と鎌倉を去る事に決めました。そして身延へと入山する事になりますが、この身延は地頭の波木井実長の領地であり、波木井実長は当時、日興師が教化した事により日蓮に帰依をしていました。恐らく日興師が事前に奔走して準備をしていたのかもしれません。四月十八日に評定があり、身延への移動は五月十二日ですので、それほど間は空いていません。今でこそ鎌倉から身延へは車で数時間の距離ですが、当時は往復だけでも十日はかかる場所でした。
◆身延への行程

・1日目:酒匂(法船寺)
文永十一年(1274年)五月十二日、日蓮一行は鎌倉の地を立ち小田原の酒匂まで進みました。この時に随行したのは日興師と日朗師、そして日持師などの弟子達だと言われています。その他、四条金吾も途中まで随行し、南条時光の家の者も物資の支援や警護で随行したと言われています。この酒匂の地には現在、法船寺という寺院がありますが、これはこの近辺にあった地蔵堂の堂守の飯山入道というのが日蓮に帰依した事で建立されたと言われていて、この入道は翌日、日蓮一行を酒匂川を渡る際に自ら船を出した人物とも言われています。
・2日目:竹之下(常唱院)
五月十三日は竹之下(現在の静岡県駿東郡長泉町)まで進みました。ここは当時宿場で日蓮一行が到着した折、鈴木繁ハという人の供養を受け、そのお礼に日蓮が曼陀羅を村人に授与したと言われています。そしてその曼陀羅を村人が御堂を作りそこへ安置し、その後に講を設けたそうです。そしてこの御堂は1831年になり常唱院となったそうです。ちなみにこの常唱院は現在法華本門流の寺院ですが、無住の寺院となっているそうです。
・3日目:車返
五月十四日は車返(静岡県裾野市)まで進みました。この周辺には現在史跡として車返結社がありますが、実際に日蓮一行が宿泊した場所は、もう少し沼津寄りの場所であったと言われています。
・4日目:大宮
五月十五日は大宮(静岡県富士宮市)まで進みました。ここで大宮と呼んでいますが、富士宮には富士山本宮浅間神社がある事から、この様に呼ばれていました。富士宮で日蓮一行が宿泊したという伝承の場所は二か寺存在します。
その一つが、日蓮が身延山に向かわれる途中、夕暮れになろうとしているのに宿が決まらず公孫樹(いちょう)の下で休息されていたところ、里人の遠藤左衛門夫妻が歩み寄り、柏餅とお酒、お布施として鵞目(がもく。穴が開いている硬貨のこと)を供養したという伝承があり、その縁起で建立された本光寺です。
もう一つは、大宮に到着された日蓮一行が、由比五郎邸にて一泊したといいますが、その縁起で建立された大泉寺です。
・5日目:南部
五月十六日は南部(山梨県南部町)まで進みました。ここには妙浄寺がありますが、元は妙楽寺という真言宗の寺院で、日蓮一行が身延を目指す道中にこのお寺に一泊し、時の住持である大輪法印は日蓮と法論し、結果、日蓮聖人に帰依して改宗したと言われています。
・6日目:身延
五月十七日に身延(山梨県身延町)に到着しましたが、ここに草庵が完成したのは六月十七日と一か月後です。ここは想像ですが、この時に波木井実長は草庵の建立予定場所を案内し、草庵が完成するまでの間、自身の館に日蓮一行を逗留させたと思います。

この身延の地は、今でこそ日蓮宗総本山久遠寺の門前町として整備されていますが、当時はかなり山奥の険しい場所であったと思います。
私も十年ほど前に実際に現地を訪れましたが、富士川から奥へ分け入った場所であり、現在は「草庵跡」として史跡になっていますが、恐らくこの土地は下が湿地で、住むにはかなり厳しい環境であった事が想像に難くないなと感じました。
一部では「法華弘通の拠点として理想的な環境だった」と言う言葉もありますが、実際にはけして環境的に良い場所でもなく、日蓮が「国をさるべし」と言った様に、国を捨て去り隠遁の場として、あえて厳しいこの土地を選んだのでは無いかと思うのです。
しかし日蓮が国を捨て去ると言ったのは、時の幕府を見限った事であり、日蓮の眼は鎌倉幕府のその先、未来を見据えていた事は間違いないでしょう。実際にはこの地から鎌倉の残った日昭師や四条金吾、また下総の富木常忍などとも連絡を取り合いながら、日興師や日朗師、日持師等の門下を育成し、雌伏の活動をここで続けて行ったのです。