
この文永の役について、日蓮の種種御振舞御書に以下の記述があります。
「同十月に大蒙古国よせて壱岐対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府もやぶられて少弐入道大友等ききにげににげ其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ、又今度よせくるならばいかにも此の国よはよはと見ゆるなり」
ここでは十月に壱岐・対馬に蒙古国が押し寄せてきて、大宰府も破られ九州で防衛戦の指揮をした少弐の当主や大友氏等も逃げ、その他の兵者(兵士)も何もする事なく大半が討ち死にしたとあります。そしてその姿を見た時、また押し寄せてきたらどうするのか。とういう事を日蓮は述べています。
これでは詳細が解らないので、少し歴史関係をひも解いて、この当時はどの様な状況であったのか、簡単にまとめてみます。
◆文永の役の状況
文永十一年(1274年)10月3日、モンゴル人の都元帥・クドゥン(忽敦)を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍15,000~25,000人の主力軍と、都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人(ツングース系民族)の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航しました。

10月5日に、元軍は対馬の小茂田浜に襲来。『八幡愚童訓』によると、対馬守護代・宗資国は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきたと言います。
ここで「何故来たんですか?」というのもどうかと思いますが、そこはお互いの戦の作法の違いかもしれません。
そのうち7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸したため、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの、そこは多勢に無勢、宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払いました。同日、元軍の襲来を伝達するため、対馬勢の小太郎・兵衛次郎(ひょうえじろう)らは対馬を脱出し博多へ出航しました。
この時の対馬の惨状は、元軍は上陸後に宗資国以下の対馬勢を破り島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、女性の手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立て、あるいは捕虜としたそうです。
この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていました。
同様に元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王と、その妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)に献上したと言われています。
10月14日、対馬に続き、元軍は壱岐島の西側に上陸しました。壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、景隆は樋詰城で自害したのです。
そして対馬と壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かいました。
10月16-17日、元軍は肥前沿岸の松浦郡および平戸島・鷹島・能古島の松浦党の領地に襲来しました。
鷹島に襲来した元軍はここでも島民を虐殺しました。この時、開田に暮らす一家8人は元軍から隠れていましたが、ニワトリが鳴いたため見つかり、灰だめに隠れていた老婆1人を除く一家7人が虐殺されたという伝承が伝わっています。以来、開田ではニワトリを飼わなくなったと言います。
松浦党の肥前の御家人・佐志房(さし ふさし)と佐志直(さし なおし:嫡男)・佐志留(さし とまる:二男)・佐志勇(さし いさむ:三男)父子や同国御家人・石志兼・石志二郎父子らがこの時に応戦したものの、松浦党の基地は壊滅してしまいました。この戦闘で佐志房および息子の直(なおし)・留(とまる)・勇(いさむ)はみな戦死しました。
ここまで見ると、当時の鎌倉幕府は警戒してはいましたが、モンゴルからの急襲により何も対応出来ていない事が見て取れます。
さて、対馬・壱岐の状況が大宰府に伝わり、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報を発するとともに九州の御家人が大宰府に集結しつつありました。
しかし薩摩や日向、大隅など南九州の御家人たちは博多に向かうに際して、九州一の難所と言われる筑後川の神代浮橋(くましろうきばし)を渡らなければならず、元軍の上陸までに博多に到着することは難しい状況でした。
これに対して、筑後の神代良忠(くましろ よしただ)は一計を案じて神代浮橋の通行の便を図り、南九州の諸軍を速やかに博多に動員しました。後に神代良忠は、元軍を撃退するのに貢献したとして執権・北条時宗から感状を与えられ称されました。
こうして集結した九州の御家人ら日本側の様子を『八幡愚童訓』では、鎮西奉行の少弐氏や大友氏を始め、紀伊一類、臼杵氏、戸澤氏、松浦党、菊池氏、原田氏、大矢野氏、兒玉氏、竹崎氏已下、神社仏寺の司まで馳せ集まったと言います。
10月20日、元軍は博多湾のうちの早良郡(さわらぐん)に襲来したと言いますが、この元軍の上陸地点については諸説あるようです。
早良郡から上陸した元軍は、早良郡の百道原より約3km東の赤坂を占領し陣を布きました。
一方、日本軍は総大将・少弐景資の下に博多の息の浜に集結し、そこで元軍を迎撃しようと待ち受けていました。日本側が博多で元軍を迎え撃つ作戦を立てた理由は、元軍が陣を布く赤坂は馬の足場が悪く、騎射を基本戦法とする日本の戦法で戦うには不向きであるため、元軍が博多に攻めてくるのを待って、一斉に騎射を加えようという判断からでした。
ところが、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が、赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍を襲撃し、上陸地点の早良郡のうちにある麁原(そはら)へと元軍を敗走させたのです。
大将の少弐景資を始め、大矢野種保兄弟、竹崎季長、白石通泰らが散々に防戦に努めましたが、元軍は日本軍を破りに破り、佐原、筥崎、宇佐まで乱入したため、妻子や老人らが幾万人も元軍の捕虜となりました。日本軍は太宰府手前の水城に篭って防戦しようと逃げ支度を始めましたが、逃亡するものが続出する中、敗走する日本軍を追う左副都元帥・劉復亨と思われる人物を見止めた少弐景資が弓の名手である馬廻に命を下して劉復亨を射倒すなどして奮戦したのです。
しかし結局、日本軍は博多・筥崎を放棄して内陸奥深くの水城へと敗走しました。ところが10月21日の朝になると、元軍は博多湾から撤退し姿を消していたのです。
対馬や壱岐を侵攻してから約二週間後に、元軍がいきなりの撤退。この事から様々な伝説が後に生まれ、「神風が吹いた」という逸話まで語られていますが、実際は何があったのでしょうか。
◆元軍の撤退について
『高麗史』金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っていて、そこでは高麗軍司令官である都督使・金方慶と元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)や右副都元帥・洪茶丘との間で軍議を行い、「少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」という結論に落ち着いた事で、急遽撤退が決められたと言います。
日本側でも苦慮しながら防戦に努めていましたが、ひるまず戦う日本の武士の姿に元軍は「これでは割に合わないから一旦は撤退しよう」という事だったのでしょう。
後年、文永の役についてクビライとその重臣・劉宣の会話の中で「(文永の役にて)兵を率いて征伐しても、功を収められなかった。有用の兵を駆り立てて無用な土地を取ろうというのは、貴重な珠を用いて雀を射落とそうとするようなもので、すでに策を失っている」と評していて、文永の役に対して元側では作戦失敗の認識であった様です。
◆鎌倉幕府の動き
鎌倉幕府の下に元軍が対馬に襲来した知らせが届いたのは、日本側が防衛に成功し元軍が撤退した後でした。元軍撤退後に元軍の対馬襲来の知らせが関東に届いた理由は、大宰府と鎌倉間が飛脚でも早くて12日半ほどは掛かったためだと言われています。『勘仲記』(10月29日条)によると、幕府では対馬での元軍が「興盛」である知らせを受けて、鎌倉から北条時定や北条時輔などを総司令官として元軍討伐に派遣するか議論があり、議論が未だ決していないという幕府の対応の伝聞を載せています。
また、11月に入ってもなお未だ執権・北条時宗の下に元軍の博多湾上陸および撤退の報が伝わっていなかったため、時宗は元軍の本州上陸に備えて中国・九州の守護に対して国中の地頭・御家人ならびに本所・領家一円(公家や寺社の支配する荘園等)の住人で幕府と直接の御恩奉公関係にない武士階層(非御家人)を率いて、防御体制の構築を命じる動員令を発しました。
このように幕府が元軍の襲来によって動員令を発したことで、それまでの本所・領家一円地への介入を極力回避してきた幕府の方針は転換され、本所・領家一円地への幕府の影響力は増大する事にもなったのです。
11月6日に京都に勝報がもたらされましたが、この時でも鎌倉幕府内では、この元の侵攻について混乱が続いていた事から、この文永の役について言えば、九州在地の御家人等の奮闘によって、辛くも元軍を撤退させた事が浮き彫りになりました。しかしその一方で、こういった混乱の中で鎌倉幕府の西国への支配力の強化にもつながる出来事になった様です。
【参考文献】
元寇-Wikipedia
日本史時点.com-【文永の役とは】わかりやすく解説!!背景や経過・結果・その後など