
ここで役職ではありませんが、創価班での事について少し書いてみます。
男子部で班長時代には創価班大学校でしたが、地区リーダーとなり、創価班でも現役の班員としての活動をしていましたので、そこで経験した事について紹介します。
◆会館運営
当時は月一回、県の中心会館で会館運営がありました。それ以外にも地元の会館でも会合があれば、その運営役員としても出動がかかりました。
基本は創価班のラインの班長から、「斎藤君は〇月〇日に会館の担当出来るか?」と連絡が入り、その日で可能であれば出動する事になります。しかし時間は18時までに現地会館に着任する事になっていたので、私は毎回遅刻で着任していました。(会社の定時が18時なのでどだい間に合うはずもありません)
事前に班長には30分遅刻というのは連絡しているのですが、毎回会館に到着し、創価班室に入ると、その時の運営責任者をしている先輩から「馬鹿野郎!遅いんだよ!」と怒鳴られるのは定例化していました。これは毎回辛かったですね。
また私が創価班になった当時は、今でこそ省電力トランシーバーがありますが、当時は基本的に連絡は有線によるインカムで対応していましたし、場合によっては内線電話を利用していました。インカムでは偶に情報が錯綜したり、あと内線電話では呼出し音で会合の話を中断させる事も許されず、ちょっと鳴ったら即応答という事に大変に気を使った事を覚えています。
ただこの事で、当時勤務していた会社では外線電話を平気で取る事が出来る様になりました。
また当時は会合に来る参加者も多く、入場時や退場時の誘導も大変でした。こと退場時に関しては参加者の中に創価班が入り、2回ないし3回に分けて退場させたり、また良くあったのは退場時に「下足間違え」と呼んでいましたが、人の靴を間違えて履いて帰ってしまう人もいました。そしてその場合には「事故」という事で、下足周辺の責任者はこっぴどく叱られてもいました。
あと会合になると、会館周辺の違法駐車問題もありました。
ある時、これは記念行事の頃ですが、私は周辺で住民から苦情が良く来る場所付近に立っていました。これは違法駐車対策です。その記念行事の会合の時、車が一台、その場所に無理くり駐車をしてきます。こちらで声掛けしても一切無視です。
そこで運転手の人が降りて来た時に、会合参加の人かを確認し、会合参加者の場合には近くの有料駐車場を案内するのですが、この時には降りて来た壮年部の人からは「がたがたうるせぇんだよ!俺がどこへ止めようと勝手だろう!」と怒鳴られました。一応、組織名などを確認すると「お前!俺の事を知らねぇのか!ふざけんなよ!」と凄まれ立ち去られてしまいました。
当時は携帯電話も無く、無線も無かったので、この場合には定期的に巡回してくる責任者の先輩に状況を伝え、会合内で呼び出してもらいましたが、車を移動しに戻って来る事はありませんでした。
またこんな事もありました。
ある時、会館では婦人部の会合をしていて、私は会館正面に立哨していましたが、車がいきなり会館前に強引に横づけして来ました。運転手はご婦人で「会館地下の駐車場に止めたい」と言うのです。でも既に会館地下駐車場は満車で入れません。すると「この正面脇に止めて良いですか?」と聞いてくるので、それはダメですと答えました。婦人部のドライバーは「あのー、婦人部長が乗っているんですが」と言ってきましたが、私はどこの婦人部長だと思いながら、「周辺の方の迷惑になるので、他の駐車場へ行ってください」と言うと、その車は去って行きました。
この時、後に場内を伺うとさっきの車の後ろに乗っていた人が壇上で挨拶していて、聞くと全国婦人部長だったとの事、要は婦人部長を門前払いしたのですが、創価班としては当たり前の事だと思いました。
全国幹部だろうが地区担当員だろうが、ダメな事はダメなんだと。
まあこんな感じで、創価班で班員になってからは、様々な経験をする事がありました。まだまだ沢山あるのですが、会合運営に関して、今回はここまでです。
◆輸送担当
当時は定例で「登山会」というのが行われていました。これは大石寺に参詣する事を言いますが、その際に大石寺へ参詣する会員を引率する事も創価班でやっていました。この事を当時は「輸送担当」と呼んでいました。
この輸送担当は1回の引率で200名から300名の会員を、2名から4名のメンバーで引率していきます。私はこれを3回ほどやりましたが、これもまた大変な事でした。
会館運営であれば、場所は移動しません。また電車やバスの時間も関係ありませんが、輸送担当では人が移動しますし、電車やバスの時間も決まっていますので、会員を漏らさずに無事故で引率するのは、かなり神経を使います。
3日前に創価班には輸送部長というのが当時いて、その輸送部長の下で当日の輸送計画の確認(参加者人数、行程時間、休憩する宿坊先から御開扉という第御本尊への参拝時間等)し、それに対して3時間近くかけて綿密な打ち合わせを行います。(時間帯は男子部の活動時間を考慮して22時以降になっていました)
そして当日は大抵平日でしたので、1日仕事を休んで早朝から出発します。これは会員の集合時間の2時間前に現地の駅に集合して準備を行います。
まずは会員が来た時の待合時の整列場所。これは通勤通学の人の妨げにならない場所を確認し、駅側と相談してパイロンを使い確保します。また1時間前には日本旅行(JTB)の担当者が来ますので、電車が入って来る番線確認で、臨時列車の車両数により、乗車場所を確認。当時は電車も2つ扉や3つ扉がありますので、どこに何名並ばせるかを確認します。朝は通勤時間で人も多いので、それを考慮して日本旅行の担当者と確認します。
そして会員が集まってくると、その日の登山会責任者(壮年部の支部長もしくは本部幹部)を捕まえて参加状況の確認を行います。当日になって体調不良で来れない人や、場合によっては寝坊して間に合わない人もいますので、その状況把握に勤めます。
そして電車が入る20分前には、集まった会員を引率して駅構内まで案内し、番線確認した場所に並ばせていきます。なにしろ臨時列車が停車するのは1分前後の時間で、その間に参加者全員を無事に乗車させなくてはなりません。
ある時には日本旅行の社員が、電車の車両編成数を間違えていて、それを元に番線確認した結果、電車が到着しましたが、会員を並ばせた場所から数十メートル手前に電車が止まってしまい、その時には200名の参加者を走らせてしまった事もありました。この時には無事乗りこぼしなく乗車させる事が出来ましたが、何とも大変な事でした。
電車に乗った後、登山会責任者に乗車人数を確認してもらい、その後、各車両を回って当日の時間帯の説明を行います。そしてこの後は、小休止の時間となります。ただ小休止とは言っても定期的に車内を巡回し、参加者の体調などは確認したりします。
集合駅を出発してから2時間ほど経つと、臨時電車は富士宮駅に到着します。
今でこそ富士宮駅は寂れた町になっていますが、当時はそこそこ活気のある町に見えました。富士宮駅に到着すると、参加者を電車から下車させ、バスの乗車場まて引率しますが、富士宮駅の専用場所が当時は設けられていて、当時は多くの地域から大石寺への参詣者が居たので、ここでの誘導も大変気を遣う処でした。
そこで会員を指定されたバスに乗せて出発、そこでも参加者の人数を確認して、乗せ残しの無い事を確認します。
富士宮駅から大石寺までは時間にして30分程で到着しますが、大石寺のバスセンターの到着したら、参加者の休憩場所の宿坊まで引率して、ひとまず往路の担当は終ります。
ただ輸送担当創価班は、そこから「輸送センター」へ行き「着山報告」を本部運営創価班の第4部長と第10班長の前で行わなくてはなりません。この時は輸送担当創価班が全員で行くのですが、責任者が参加者方面組織名、参加者数、事故の有無、事故があった場合にはその概要を端的に報告します。
すると第10班長が重箱の隅をつつくような確認が入り、第4部長が総括するのですが、これが地獄でした。私の頃にはかなりソフトになりましたが、輸送担当創価班をランダムに指名して「山門の瓦の枚数を言ってみろ」とか「本日登山している副会長の名前は?」と聞いてきます。そこで即答出来れば良いのですが、即答出来ない場合には、第4部長は烈火の如く怒鳴りつけるのです。「そんな生命(いのち)で会員を護れるとお前は思っているのか!!」なんて感じですね。
必死に会員を引率してきた輸送担当創価班は、みなこれを受けて最初はビビりちらかします。まあ幾度か経験したベテランならば「申し訳ありません!」なんて謝りますが、形式的な事だと受け流してもいました。また、私の先輩でも第4部長をやっていた人がいましたが、男子部卒業後に聞くと「ああ、あれは趣味で怒鳴ってたww」と言う様な事でしたからね。
その後、休憩場所の宿坊戻り、御開扉時間になると参加者を正本堂前まで引率します。そして輸送担当創価班はその後、御開扉終了して下山時間になるまで第2部長の下で、主に正本堂前の整理誘導に入りますが、私が初めて輸送担当をした時には、夏の炎天下で日陰の無い場所での誘導担当の際に、脱水症状で倒れる寸前までいきました。
またある先輩が責任者の時には、この正本堂前の担当をバックレて、塔頭脇(宿坊の裏手)の喫茶店で時間を潰した事もありました。当時は先輩に「これって、まずくないですかね?」と聞くと、「ばか野郎ww真面目にやって倒れても仕方ないだろ?休む時には休むんだよ」と言われました。でも創価班のユニフォームのままで喫茶店に入っていると、何か居心地が悪かったんですよね。
そして下山時間になると、大石寺まで来た時と逆ルートの行程を行います。参加者を無事に出発の駅まで引率したら、輸送担当創価班の任務は解除となりますが、その時には20時頃になっていました。
これも結構大変な事でしたが、今でも私の脳裏には残っています。
この他、本山担当と広宣部の活動もありましたが、それは次の記事で書きたいと思います。