自燈明・法燈明のつづり

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創価学会の役職について(7)-創価班の事③

今回は創価班の広宣部について書いていきます。

私が広宣部になったのは、23歳の時でした。この広宣部とは法華講顕正会の対応をする部局として創価班の中にある組織で、そこで新規に部員を募集するという話しが先輩からあり、特に異論も無かったので広宣部として面接を受け、部員となりました。

私は以前から第一次宗門問題の事についても疑問がありました。これは創価班大学校当時からのもので、幾人かの先輩幹部に聞いても第一次宗門問題の内容は「屈辱の歴史だ」という事しか教えられず、詳細は教えてもらう事もありません。当時はネットなんてものは当然なく、調べようにも何も解らないという状況だったのです。

私が知っているのは小学生の時、一般の新聞で「創価学会会長の池田大作氏の勇退」という事が報道された事と、それまで勤行要典で初代・二代会長の追善供養の御祈念文が無くなった事。あとは池田会長が大石寺に謝罪したという事だけでした。

その事から当時思っていたのは「創価学会として謝罪したという事は、第一次宗門問題でも創価学会として非があったのだろう」という事でした。

広宣部になると、その辺りも学ぶ事が出来るという事。あとは高等部の時に顕正会からケチョンケチョンに理屈で詰められた事についての答えを学ぶ事が出来るという事も言われたので、私は広宣部に入る事にしたのです。

そう、広宣部に入ったのは創価学会について学ぶ為でもあったのです。

◆学習会の参加

まず初めに広宣部になる時に、ライン活動(一般的な組織活動)よりも優先する場合があるという事を言われました。またその活動内容については、ラインの組織幹部にも詳細を報告しなくて良いケースもあるという事も言われました。

要は「裏部隊」に近い動きをする事もあるという、今でこそネット界隈では広宣部というのは「謀略組織」と言われ、ちょっと変な認知もされていますが、当時は男子部のライン幹部でもその詳細はあまり知られていなかったと思います。

広宣部に入って最初は週1回の「学習会」に参加する事から始まりました。そこでは「ハタチ教学」と呼ばれていましたが、波田地氏(後の教宣部長-だったかな?)のまとめた教学資料を頭に叩き込む事から始まったのです。この資料は過去にあった対宗門や対顕正会に対する歴史的な資料や、その幹部の過去の発言集で、そこに堅樹院日寛師の教学(主に六巻抄)を基にした反論資料もあり、また日蓮大聖人の御書全集による切り口等が詳細にまとめられていました。

こうして半年ほど経ったとき、広宣部の先輩から連絡が入りました。それは隣の区に顕正会の幹部が来るから、その対応をしろという事でした。半年たっていきなり本番の対論とは、あまりにもスパルタ的な教育方法では無いかと思いましたが、先輩曰く「斎藤!お前もし顕正会に負けたらタダじゃおかねぇからな!」の一言だけでした。

◆初めての対論

当時の私はラインでは地区リーダー。対論に向けた打ち合わせでは、隣の区の創価班委員長や広宣部長、また創価班の県の広宣部長も出てきました。中で一番、ライン役職で下なのは私だけ。これは何とも心細い限りでした。

状況は隣の区の男子部の処に、学生時代の友人が訪ねて来て顕正会への勧誘を受けたところ、男子部が創価学会だと名乗ったそうです。するとその友人に同行していた顕正会幹部が「対論して正邪をはっきりさせるから、幹部を呼べ!」と言って来たそうで、その対論の相手として私に何故か白羽の矢が立ったとの事でした。おいおい、私は一介の地区リーダーだし、広宣部でも対論経験なんて全く無いんだぞ。

「大丈夫だよ!斎藤君なら負けないから!」

この打ち合わせに来ていた幹部は口を揃えて言いますが、私はとても自信なんてありません。ただ先輩に言われた「タダじゃおかねぇからな!」と凄んで言われた言葉だけが脳裏にコダマしていたのです。この言葉を言った先輩は、元ヤンキーでが学生時代に地元を締めていた事で有名な人だったのです。

さて対論当日。場所は男子部員の家で、彼の部屋の隣ではワイヤレス録音の装置を持ち込み対論の中身を録る準備がされていました。また駅から彼の自宅までの間には、車両を停めてそこに隣の区の広宣部員がカメラをスタンバイして相手の写真を撮る体制もしいていたのです。

対論開始の日時はとある日曜日の午後1時。周辺にスタンバイしている広宣部から、顕正会の幹部が男子部の友人を連れて向かっているとの連絡が入りました。

「こんにちわ~、お邪魔します」

顕正会の幹部が友人と2人で彼の部屋に入ってきました。ヒョロッとした長身の男性で眼だけは異様にギラついていました。恐らく私よりは年齢が上で、こちらは私と件の男子部員の2人です。(隣の部屋には創価班のお偉いさんが詰めていて、皆息を殺して録音し始めていました)

初めは軽く自己紹介という事で、相手は顕正会班長との事でした。私は男子部の地域幹部と名乗りました。すると顕正会班長(仮にK氏と呼びます)が言いました。

「貴方が今回のこの対論で、創価学会を代表する人という事で良いですよね?」

これには一瞬躊躇しましたが、その素振りを感じ取ったK氏は続けてきます。

「貴方が創価学会を代表出来ないなら、出来る人を今すぐ此処に呼んでください。私の方では、もしご希望なら今すぐ浅井会長を呼びますよ」

ここで引いては対論せずに顕正会側は「創価学会が逃げた、話にもならない」と言いレッテル貼る事は知っていたので、私は言いました。

「貴方が私を創価学会の代表だと認めるのであれば、それで結構です。大事な事は互いの正邪を明かにする事なんですよね?」

すると相手も了承して対論を始めました。最初の論点は「広宣流布」の事で、相手は三大秘法抄と一期弘法抄を以て話を詰めてきます。相手は御書のページ数を諳んじ、本文も諳んじながら話をしてきます。多分、多くの場所でこの論法で攻めてきたのでしょう。私は最初の三十分間、ひたすら相手の話を聞く事に専念しました。そしてK氏は最後に「広宣流布の時でもないのに、正本堂を事の戒壇として建立した事で、創価学会日蓮大聖人の御遺命破壊をした事は間違いないですよね?」と詰問をしてきました。

ここで私は反論しました。その根拠は「正本堂建立趣意書」という文書です。これは正本堂建立時に宗門内に周知した資料です。細かい事は省きますが、要はこの資料により、当時は妙観講の幹部であった現浅井会長も、正本堂の建立意義について、その内容は充分認識していた筈だという事を突きつけたのです。

それを言うとK氏は狼狽え始め、他の話へと話題を振り回そうとしましたが、まずはこの点について論じる事が先決で、その他の話はこの論点が決着したら次に幾らでも答えてやるからまずは答えろと詰め寄りました。いわゆる「論点ロック」という手法です。それでも話題を別に振ろうとするので、少し語気を強め「私の言った事を認めるのか、認めないのか、はっきりしろ!」と詰め寄ると、K氏は渋々と浅井会長も建立趣意書を認識していたと思うと答えたのです。

もうそこからは様々な論点で逆に詰めていきましたが、二時間ほど経つとK氏は「私は次の折伏現場があるから失礼する」と言って、一方的に座を立って帰ってしまいました。

結果、私も安堵して(先輩からシバかれずに済む)、同席した男子部も喜び安堵して初めての対論は終了したのです。

◆その他の活動

その後、私は主に顕正会の対応をする事になりました。ある時には男子部の友人が顕正会に拉致されてしまい、ホウホウの体で逃げ帰り友人である男子部に「顕正会って知ってんだろ?」と相談があり、その男子部からの相談で、とある顕正会の拠点を調査した事もありました。

そこは小さい借家でしたが、周辺に聞きこむと最近、若い男性が複数人で住んでいるという話しを聞き、借家に掲げてある名札から、顕正会の活動家の身元を割り出して実家に行くと、そこの両親から「私達が言っても息子は云う事を聞かないので、貴方達で何とかして欲しい」と懇願された事もありました。どうやら息子は顕正会の活動に没頭するあまり、なかば家出状態で両親はどこに息子が居るのかを知らなかった様でした。

また地元の女子部が近所のファミレスで顕正会に捕まったという連絡が入り、急いでそのファミレスに行った事もありました。その時にいた顕正会の幹部が、実は先に紹介した初めて対論した班長で、思わず相手の顔を見てから「あんた、一体何やってんの?」と言い、対応したという事もありました。

また地元の高等部員が無理やり入会届を書かされたと連絡があり、この時は顕正会の某会館に先輩と私、そして同じ区の広宣部の3名で訪問し、入会届を返せと言ったところ、その顕正会の会館前で若い男二十人近くに囲まれ、罵声を浴びせられながら一触触発という場面になった事もあったのです。

あと地元の法華講員の幹部が、地元の創価学会の幹部宅を軒並み訪問して来た事もあり、逆にその法華講幹部の家を訪問し、脱会運動を止めて欲しい旨、話に行った時もありました。

この法華講に関して、地区リーダー時代には、地元の本部内の法華講員が創価学会の誹謗中傷のビラを本部内に撒いた事から、その講員宅を訪問。その講員は自宅内に招きいれてくれたのですが、私と同行の壮年部相手にひたすら罵詈雑言を述べるので、日精師造仏問題を指摘した事もありました。そうすると宗門でもこの歴史は教えられてなかった様で、言葉につまった挙句、そこの奥さん(七十歳位ですかね)から肩を思いっきり殴られた事もありました。奥さん曰く「若造のくせに生意気な奴め!」が、その時の言葉でした。

 

こんな感じで広宣部の活動はしていましたが、別にこの事は当時の地元の部長には詳細の報告していませんでした。ただ「広宣部の活動で、、」と言ってやっていましたので部長からは不評を買っていましたね。地区リーダー会とか部活とかをすっ飛ばして動いていた事も結構ありましたので。

でも平成初期には、顕正会法華講、そして妙観講や偶に「四月会」に関係した事で、広宣部の活動は結構活発に動く事があったのです。

今の時代の活動家には、恐らく理解出来ない事だと思いますけどね。