
日蓮が鎌倉を去り身延に入山した後、世の中は文永の役で特に九州方面では大変な苦難の時期を迎える事になりました。これについては前の記事で「文永の役」の事を簡単にまとめましたので、そちらを参照してください。
身延入山後の日蓮の行動を見ると、それまでの様に日蓮が前面に出て弘教に動くというのではなく、日蓮の門下が動き、日蓮はその門下の激励や育成、また自身の教学の確立に注力していた様に見えます。
以降の日蓮周辺の代表的の動きについて年表からピックアップしてみると、以下の様な事を行っていました。
・文永11年(1247年)日興師、駿河実相寺方面に弘教を行う
・文永11年(1247年)11月 法華取要抄を著す
・文永11年(1247年)12月 万年救護本尊を顕す
・建治元年(1275年) 7月 撰時抄を著す
・建治 2年(1276年) 7月 報恩抄を著し、日向に道善房の墓前で読ませる
身延入山以降の代表的な事は上記のものですが、それ以外には日蓮門下や信徒に対して実に多くの書簡を送り、本尊書写などを、この間に行っています。日蓮が身延に入山した後も、例えば四条金吾が主君の江間氏から譴責を受けたり、池上兄弟の問題なども起きていました。また建治3年(1277年)頃から日蓮自身、体調を崩しており、弘安元年(1278年)6月には、かなり病が悪化した事もあった様です。
この様な状況の中で、日興師が弘教を進めていた駿河方面で「熱原の法難」が起きたのですが、その事について少しまとめてみます。
◆熱原の法難
熱原の法難は、弘安2年(1279年)に駿河国熱原(現在の静岡県富士市)で起きた、日蓮の農民信徒が受けた宗教弾圧事件です。
事の淵源は、文永11年(1274年)頃から、日興師が駿河実相寺を中心にして弘教を強力に推し進めた事から始まります。この駿河実相寺ですが、平安時代から天台宗の寺院であり、日蓮が立正安国論を推敲する際には一切経典を閲覧した寺院で、日興師はここで日蓮と出会いました。
建治2年(1276年)に、実相寺の学頭であった智海法印が日蓮に帰依し、日源と改名し、その後この実相寺は日蓮宗の寺院に改宗したと言われています。
日蓮の弟子である日興師は、親族や地縁を通じて駿河方面で支持基盤を構築し、この実相寺を中心にした地域で法華経の講義などを行い弘教を進めましたが、弘安2年頃になると熱原方面で信徒間の結束が強まりはじめ、この熱原方面の古刹寺院であった天台宗古刹寺院の竜泉寺が日興師を中心とした弘教の動きに注視をし始めます。
そもそもですが、実相寺の学頭であった日源が改名し、実相寺が日蓮(当時は日蓮宗という宗派はまだ成立していません)門下の寺院に改宗した前年の建治元年(1275年)に、竜泉寺の学僧であった日秀、日弁、日禅の三名は日興師の教化を受け日蓮に帰依していました。そしてこの三名の学僧が日興師のもとで熱原方面の弘教に関与していた事もあったので、竜泉寺としても当然、警戒感を強めていました。
この竜泉寺の院主代であった行智(平左近入道)は、在家出身の僧でしたが、当時は鎌倉幕府の平左衛門尉頼綱の威光を背景にこの寺院を掌握していました。行智とすれば、日興師を中心に元竜泉寺の学僧三名を中心に熱原方面で日蓮への帰依が拡大する事で、竜泉寺の地域への影響度が低下し、この地域からの利益が減少する事を恐れたのかと思います。
そこには日蓮が鎌倉や佐渡で弘教して、既存の仏教寺院が日蓮の迫害へと動き出した動機と同じ事があったのではないでしょうか。
行智はこの熱原方面の動きに対して日秀、日弁、日禅の三名を追放すると共に、日蓮へ帰依した信徒の田畑を没収するなどの行動を起こし、弘安2年(1279年)7月に熱原地方の一部信徒に「刈田狼藉等」の濡れ衣を着せて身柄を拘束しました。そして8月には拘束された熱原信徒の数名が鎌倉へ護送されていきました。
護送された熱原信徒は、鎌倉で取り調べや迫害にあい、そこで改宗の強要(日蓮への帰依をやめ竜泉寺に戻る事)が行われましたが、彼ら信徒は一向にその強要に屈する事は無かったのです。
その結果、10月には信徒の内三名(神四郎、弥五郎、弥六郎)は斬首され、残りの信徒達は熱原から追放処分とされました。そしてこの熱原の法難の背景には、平左衛門尉頼綱が居ました。
その後、この斬首された三名の信徒は熱原の三烈士と呼ばれていったのです。
日蓮はこの一連の動きを常に日興師から報告を受けていて、様々な手を打ってきましたが結果として熱原信徒を救い出す事は出来ませんでした。しかしこの信徒への弾圧を重視し「竜泉寺申状」等で、この不当な弾圧を行った幕府や竜泉寺に対し、弾劾・弁明などを行うと共に、その後は日興師を中心として弘教を進めて来た地域への対応を進め、信徒を護るための様々な法整備なども進めて行ったと言います。
◆少し考察
この熱原の法難では、神四郎、弥五郎、弥六郎など熱原の信徒達は、幕府役人からの拷問に屈せず、逆に役人に対して日蓮の教えを説き、御題目を唱え続けたと言われています。しかしこれは日蓮の教えに対する強い信仰心からの発露だけだったのでしょうか。日蓮正宗や創価学会では、この熱原の法難を契機に「日蓮の出世の本懐」という事に結びつけて語られていますが、そこは少し見直す事も必要ではないかと私は思うのです。
彼ら熱原の信徒達は、ただ純朴に日興師やその下で動く日秀、日弁、日禅たちの言葉を信じ、自分達の生活が良くなり、安寧な日々が送れるのであればと日蓮の教えに帰依したと思います。その純朴な農民信徒が、ある日突然濡れ衣を着せられ身柄を拘束、しかも鎌倉まで護送されたのです。恐らく熱原の地域内でも日蓮に全員が帰依した訳ではないので、地域の中でも帰依をしなかった人々との間で、様々な軋轢が彼らにはあったと思いますが、そんな彼らはある日突然、幕府の役人から身柄を拘束されました。
その彼らが鎌倉で拷問に会い「日蓮への帰依を止めろ」と責められた場合、果たして信仰を始めて数年の農民信徒が、純粋に信仰心とその法悦の中で、これら拷問を莞爾として受け止めたとは思えないのです。むしろそんな横暴な権力への反抗の言動として、彼ら農民信徒は日蓮への信仰を語り、御題目を唱え続けたのではないでしょうか。
いまこの熱原の法難のモニュメントとして、熱原の三烈士の墓は大石寺の奉安殿の脇に設置されています。宗教とはとかく法難に対して美化した伝説が語り継がれますが、実はその伝説の奥にあった事件の真相について、もう少し思いをはせる必要があると私は思うのです。そこにはけして宗教への法悦や信仰心への美談だけでは語られない何かがあると私は思えてなりません。