自燈明・法燈明のつづり

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聖人御難事と出世の本懐

さて、拙い内容で恐縮ですが、昨日の記事で「熱原の法難」について少しまとめてみました。

日蓮は弘安2年9月21日の「熱原の法難」の報告を受け、10月1日に四条金吾に対して「人々御中に報ず」として「聖人御難事」という書をしたため届けました。そしてこの「聖人御難事」の冒頭には以下の記載があります。

「仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。」

ここでは釈迦が四十余年たって出世の本懐(法華経の説法)をとげ、天台大師は三十余年で出世の本懐(魔訶止観)、伝教大師は二十余年で出世の本懐(比叡山戒壇建立)を成し遂げた事を取り上げ「予は二十七年」と、この熱原の法難のあった弘安2年の事を取り上げています。この文脈を見ると、日蓮の出世の本懐は弘安2年に遂げられたと読み取れます。

「出世の本懐」とは何か。それは仏などがこの世界に生れて来た事の、本当の目的の事を指しています

大石寺創価学会の解釈

この聖人御難事は弘安2年10月の著述で、直前に「熱原の法難」が勃発し、この御書内にも「彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをどす事なかれ」と、熱原の法難により殉難した人々に対する気遣いの言葉も書かれているので、先にある釈迦や天台大師、伝教大師の出世の本懐を紐づけて「余は二十七年なり」と語っている事から、熱原の法難に関連した事で、日蓮の出世の本懐が遂げられたとこれまで解釈されています。

大石寺日蓮正宗)では、この日蓮の出世の本懐については、現在奉安殿に安置されている「一閻浮提総与の大御本尊の御図顕」としています。

これは熱原の三烈士に見られる信徒の殉教の行動を見て、時を感じた日蓮は「一閻浮提総与の大本尊」を図顕したというのです。

ただしこれには、まず「一閻浮提総与の大御本尊」に対しては、後世の偽作説が言われています。

その理由の一つとして、願主(大本尊の図顕を願い出た人物)が「弥四郎国重」と大御本尊には書かれていますが、弥四郎国重なる人物は熱原の法難には関与していません。しかし宗門側では一貫して熱原の三烈士の関係者に弥四郎国重が居たと主張していますが、この存在を明確に示した当時の資料は存在しないのです。真っ当に考えて、その様な大御本尊の願主となる人物であれば聖人御難事で触れられても良い筈です。

また板本尊の下部には、空白部分がありますが、そこに「弥四郎国重法華講中敬白」と彫り込まれています。しかし日蓮が在世の時代、日蓮が起こした「大師講」という講の存在は確認されていますが、法華講については当時まだ設立されていないのです。またこの大御本尊については、明治14年日蓮聖人六百遠忌の際に文字に金泥をいれていますが、この掘り込み部分には金泥を入れておらず、実物を見た人物の当時の話では、日蓮の筆跡とは異なる様に見えたという証言もありました。

また1978年に大石寺の学僧の河辺慈篤が記録したメモ(通称、河辺メモ)には、当時日蓮正宗の教学部長であった日顕師が「戒壇の御本尊は偽物である」という発言をしたとされる記述があった事が、第二次宗門問題の当時に取り上げられたり、金原明彦氏の著書「日蓮と本尊伝承」には、弘安3年5月9日日付けの日禅授与の本尊の主題(中心の御題目)の筆跡が、この戒壇の大御本尊と完全に一致している事が指摘され、その他の書体や勧請された諸尊の配置、筆跡などを比較しても、やはりこの大御本尊は日禅授与の本尊の模写の可能性が高いと結論付けています。

他にもこの大御本尊への疑念が多い中、大石寺では科学的な検証について一切拒否をしている事もあり、私はこの「戒壇の大御本尊の御図顕」が出世の本懐とは考えていません。

一方、創価学会ではこの熱原の法難により、三大秘法の南無妙法蓮華経を受持して、不惜身命の実践で広宣流布する民衆が出現した事を見て、世界の人々を救うための日蓮大聖人の仏法が現実のものとなった。という事を出世の本懐としています。

しかしここで考えなければならないのは、拘束された熱原の信徒は20名で、斬首をされたのは3名でした。これで果たして「不惜身命の実践で広宣流布する民衆が出現」と言い切れる事なのでしょうか。熱原農民信徒は、前の記事にも書きましたが、けして自らが「不惜身命の実践」を望んでもいませんし、斬首された三烈士を始めとして拘束された信徒達は、横暴な竜泉寺の行動や幕府に対して反抗心により、最後まで改宗を拒否したとみるべき事であり、この熱原の法難だけで、日蓮が出世の本懐とした信仰が現実的に確立されたとは考えていないと思うのです。

この日蓮正宗創価学会の何れの解釈に於いても、共通している日蓮観とは、信徒が虐殺されるという事を契機に、それを自身がこの末法に生れて来た本懐を遂げたという解釈をした人物という事であり、これでは日蓮は「サイコパス」と言われてもおかしくないのではありませんか?

◆注目すべき点について

ここまで様々な事を書きましたが、日蓮がこの「熱原の法難」により、自身の出世の本懐と捉えた事があったのは、先の聖人御難事の記述からみても否定する事は出来ません。この出世の本懐について、別の説ではこの時期に日蓮が著述した「三世諸仏総勘文教相廃立」を著した事では無いかという考察もあります。確かにこの御書は日蓮教学の集大成的な文書と言われ、法華経を中心として教相判釈の御書と言われてもいますが、後世ではあまり広く講義解釈なども行われていない事から、出世の本懐の書とは思えません。

では日蓮が聖人御難事で他の三師(釈迦、天台、伝教)の本懐を述べ、自身の本懐である事を匂わせたのは何の事だったのでしょうか。

私はこの「熱原の法難」までの経緯とその対応について、日蓮が前面に立っておらず、この時には日興師を中心とした日蓮の門下の働きが前面に出ていた事に、自身が「出世の本懐」と感じた事があったのではないかと推察しています。もしくは、その様に門下の中でこの「熱原の法難」を位置づけしたのではないでしょうか。

それまでの法難。それは松葉が谷の法難から佐渡流罪にかけて、全て日蓮が前面に立って権力者と対峙して戦ってきましたが、この熱原の法難に関して言えば、弟子の日興師が中心となり、日秀、日弁、日禅の三名が働き、また日蓮の門下の各人が、この熱原の法難を耐え抜いた事で、日蓮が自身の亡くなった後の自身の精神の継承者の姿を見る事が出来た事を「出世の本懐」と表現したのかもしれません。

日蓮の考えていた出世の本懐とは、「命を賭して仏法を弘める弟子の出現とその姿」にあったと私は考えていますし、またそれ自体を「出世の本懐」と位置づけしながらも、それで日蓮自身の人生の目標達成だとは考えていなかったと思います。

私はその様に考えているのです。

そもそもですが、自身がこの世界にどの様な目的で生まれて来たのか、それを判断できるのは、恐らく自身がこの世界から居なくなる時であって、この世界で生きている間は、最後まで目的の達成に向けて人は努力すべき存在だと思いますよ。