自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

日蓮の入寂について

さて、日蓮の入寂について書いてみます。

一般的に日蓮宗日蓮正宗、また関連する宗教団体ではこれを「入滅」と呼ぶ節がありますが、私は仏教において高僧や修行者が亡くなることを表す敬語的表現として「入寂」という表現を使わせてもらいます。

日蓮は仏ではありません。希代の高僧であり時代の寵児として生き抜いた人でもあるので入寂が一番適切な表現だと思っています。

日蓮晩年の体調について

日蓮は身延へ入山後、弘安元年頃から主に下痢の病で体調を崩し、四条金吾が調合した薬などで持ち直した状況が「妙法尼御前御返事」などの手紙で書かれています。また弘安4年(1281年)にしたためられた「老病御書」には「老病為るの上、又不食気に候間、法門なども書き付けて申さずして」とある様に、体力の衰えと食欲不振などを訴える記述なども見て取れます。これらは生涯に渡る迫害の中によるストレスの蓄積や、身延山での過酷な生活環境もあって、病を得る中、急激に体力が衰えて行った事を示していると思われます。

弘安5年(1282年)になると、身延山での生活の中で持病(消化器系の疾患など)が悪化し、弟子達から当時と療養を勧められる様になり、日蓮身延山を離れる事を決めました。「富木殿御返事」などの御書では「常陸の湯に行かんと欲す」と書かれていますが、これは筑波山麓の温泉(筑波湯)か五浦温泉へ向かう事を考えていたのではないでしょうか。

◆池上邸までの足取り

弘安5年(1282年)9月8日、日蓮身延山を下山しました。この時には地頭の波木井実長が献上した馬に乗られ、数名の弟子や旦那に付き添われての下山であったと言います。この日は鰍沢山梨県南巨摩郡鰍沢町)まで進みました。

9月9日は、鰍沢から曽根(山梨県東八代郡中道町)まで進み、9月10には黒駒(山梨県東八代郡御坂町)と、ゆっくりとしたペースで移動しています。その後、9月11日には河口、9月12日には呉地山梨県南都留郡西桂町)、9月13日には竹之下(静岡県駿東郡小山町)と三国峠足柄峠などを越えて進み、9月14日には関本(神奈川県南足柄軍足柄町)まで進みました。9月15日には平塚に入り、そこから北東へ足を進め9月16日には瀬谷(横浜市瀬谷区)に逗留、そして9月17日には池上邸へ到着しました。

身延入山時には数日で身延へ到着しましたが、今回は池上邸まで10日を要した事を見ても、この旅路で日蓮の体力は著しく低下していた事が見て取れます。

池上邸に到着後の9月19日に、日蓮波木井実長に手紙を書こうとしましたが、既にこの時には筆を持つ力もなく、近侍していた日興師に口述筆記をさせ、せめて花押を認めようとしましたが、それもかなわず「所労の間判形を加えず候こと恐れ入り候」と口述筆記をさせています。

そして池上邸から動く事も出来ない状況となる中、それから約1か月後の10月13日の午前8時頃に、日蓮はこの池上邸で入寂しました。最後には池上邸に居る弟子達に対して、立正安国論を講じたという伝説も残っていますが、日蓮の生涯はまさに鎌倉幕府や鎌倉仏教界との闘争の人生であったと言えるでしょう。

日蓮の生涯について

ここで日蓮の生涯を追う事を一旦とめますが、ここまで見て日蓮の生涯は既存の宗教勢力との闘争の生涯と言っても良いと思います。

日蓮の生まれた前年に「承久の乱」が起き、それまでの国の形が天皇や公家を中心とした朝廷の政治から、その臣下の武家が政権を握る世の中になり、その後の混乱の時代を生き抜いてきました。そしてそこで混乱し、人々が苦しむ世の中を、何とか出来ないものかと仏教の世界に入る中で、天台大師の教えの琴線に触れたのでしょう。

日蓮はその総本山の比叡山で修学を続ける中で、この世の中を安寧に治める法として「法華経」を中心にした仏教の再確立を考えたのかもしれません。何しろ当時の比叡山は、伝教大師の確立した教えとは異なり、密教を取り入れ、念仏を取り入れ、日蓮の眼から見たら教学雑乱に見えたのかもしれません。

しかし日蓮の考えた仏教の再確立は、既存の仏教界の既得権益に触れる事にもなり、結果として生涯を権力側との闘争で、常に「刃の下」の人生を歩まざるを得なかった。しかし日蓮自身は、その「刃の下」の人生こそが法華経を身読すると理解しました。

しかし結果、日蓮鎌倉幕府の諌暁叶わず、二難の預言も的中しましたが、その回避には何ら功績を残せなかったのです。だから日蓮は身延の山中に籠り、後世の人材の育成と、自身の教学の構築に力点を置いたのではないでしょうか。

私は日蓮を「久遠元初自受報身如来」とか「久遠元初の仏」とは見れません。日蓮法華経に説かれた久遠実成の釈尊の本門の眷属として、末法のこの日本に法華経の教えを確立したいと考えた一人の僧では無いかと感じています。

しかし残念な事ですが、日蓮が入寂の後、弟子達は時代の波に翻弄され、多くの分派に分かれてしまいました。果たしてこれが日蓮の本意に叶った事だったのでしょうか。

そこを私は考えてしまうのです。