
今から考えてみたら、私が男子部の部長という役職についた当時は、創価学会としても大きな変化を迎えていた時期だと思います。
まず一つ目は、国政選挙の活動がありませんでした。
これは1994年12月に新進党が成立し、公明党は分党した時期でもあったのです。これは国政レベルの話で、地方議会では会派として公明党は継続して存在していました。しかし私の地域では、公明党の地方議員が居なかった事もあり、実質上、選挙戦というのがなくなっていたのです。
これは実に楽な時期でしたね。
今でこそ創価学会は「集票マシン」と呼ばれていて、創価学会は公明党支援を中心に活動する政治宗教団体ですが、当時は青年部の中でも選挙戦は「消耗戦」と幹部の中で語るほど、組織を疲弊させるものと捉えていました。それが無い分だけ、より信心の本道に力を向けられると皆が考えていた時期だったのです。
そしてもう一つは、御本尊流布(授与)の活動がありませんでした。
これは1991年11月28日に、創価学会が日蓮正宗から「破門」されると共に、御本尊の授与が停止されました。これにより新規会員への御本尊授与もそうですが、例えば分世帯(子供が親元を離れるなど)でも、御本尊が授与されないという事態になったのです。
だから当時、親元を離れて分世帯した男子部の中には、御本尊が無いお厨子に向かい、勤行していたメンバーもいましたね。
◆オープンハウス大学校運動
御本尊流布の数は男子部の「ランク付け」の様な位置づけがありました。例えば部幹部以上に登用するには当時「御本尊流布1世帯以上」が絶対条件でした。幹部カードという組織内の人事カードにも「入決数(入信決意数)」と「御本尊流布」の数を明記する項目がありましたので、これはとても重要な指標となっていたのです。
しかしその御本尊流布が出来なくなると、この指標となる活動が無くなる事になります。そこで創価学会としては「会友数」というのを設けました。これは創価学会の活動に理解を示してくれた友人に「会友証」なるものを手渡し、会友証があれば学会の会館にも入れるし、その他行事にも参加を出来ますと言い、この拡大をそれまでの御本尊流布数に変わる指標としたのです。そして会友拡大の機会として「オーブンハウス大学校運動」という事を創価学会青年部では打ち出しをしました。
オープンハウス大学校では社会に開いた様々な活動や啓もう活動を、支部毎に企画して男子部として取り組み、そこに来た友人に創価学会の活動の主旨を説明し、賛同してくれた人に「会友証」を手渡すというものでした。そしてこのオープンハウス大学校の活動に友人を巻き込む事で、理解者の拡大を図ろうとしたのです。
要は浅く広く、とにかく社会の中に開いていき創価学会の理解者を増やして行く。それが当時の男子部の活動のメインでもあったのです。
当時の私の支部でも、この活動で3名の会友が居て、男子部の会合やオープンハウス大学校の企画にも参加をしていました。前の記事で紹介した支部総会への協力もその一環だったのです。組織としての敷居を低くして、そこでは入会を一切強要しない。これに友人達は快く参加してくれていました。
でも地元の壮年部や婦人部の幹部の中には、この青年部が行っている会友運動を快く思わない人たちも居ました。それは「何を生ぬるい活動をしているんだ」「そんな事で広宣流布が進むわけないではないか」「しっかり創価学会に入会させろ」。そんな声が当時部長であった私の耳にも入っていました。
◆御本尊授与の再開
私が部長となりしばらくしてから間もなくの事、それは1993年11月頃ですが、創価学会で独自の御本尊授与を再開するという事が決まりました。
それは栃木県浄圓寺が寺に所蔵されていた日寛師の御本尊を創価学会の本尊として下さいという言葉があり、これをオフセット印刷し、曼陀羅としたものが新たな本尊となりました。この事について当時の聖教新聞の紙面には、新たな御本尊を授与出来る事に組織の中は歓喜の渦という様な文字が踊りました。
しかし当時、男子部で部長をしていた私には大きな危惧がありました。
それは漸く大学校運動も地に付き始めの頃で、敷居の低さから友人達も気軽に会合にも来てくれる様になり、そこから様々な交流も始まり「オープンハウス大学校運動」も、これからと思っていた時に、この御本尊授与が始まった事で過去に逆戻りしないかという事でした。
私が地区リーダー時代には、折伏戦というのが定期的に行われ、そこでは各支部が競って御本尊流布を行っていました。その中にはけして褒められる行動ではない事も多く発生しており、一旦、御本尊流布したものが、その後の家族の反対からお返しされる事態があったり、また組織として目標完遂の為に、かなり無茶苦茶な御本尊流布もあったのです。それこそ強引に安置するという事も、私の組織では無いのですがありました。
傍から見ても、これは友人の為にはならないよな。そんな御本尊流布も幾つか目にしてきたのです。
この「新たな御本尊流布について」を周知するために、区部長会が行われた時、幾人かの部長からは同じ危惧について質問がありましたが、当時は「これから新時代の折伏は道理に基づき行われる」と説明があり、「いくら競い会うと言っても、入会条件もしっかり明確に定め、手続きも新たな事が決まったので、過去の様な無理な御本尊流布は行わない」と説明されました。
しかし部長会が終わった時、同じ本部内の部長たちと話をしたのは、結局昔に戻るんだろうなという事でした。つまりオープンハウス大学校活動は終焉し、また数を追いかける折伏戦になるんだろうという事を予想していたのです。
◆折伏再開
1994年頃から新たな御本尊による折伏戦が始まりました。この時にまず打ち出されたのは「会友の刈り取り」とも言える御本尊授与の活動でした。これはつまり会友として来てくれている友人に御本尊流布をして行こうという事でした。しかしこれは当然、上手く行く事もなく、それ以降、友人達が男子部の活動に参加してくれる事も無くなりました。
それ以降、年に何回かは「折伏戦」という期間闘争が行われましたが、なかなか御本尊授与は進みません。組織でも折伏戦ではとかく男子部に脚光があたり、支部の婦人部やら各地区部長から男子部の友人の状況などの確認が、私の処に入るのですが、なかなか数字としてつながる事はありませんでした。
今から考えたら、この新たな御本尊が出て来たからと言って、それに事寄せて御本尊流布に走ろうとする組織の在り方に、私が納得していない事もあったからかもしれません。
そして約1年ほど過ぎると私の支部以外でも、過去の様に御本尊流布数が上がって行きましたが、私の支部は一向に成果(御本尊授与数)が上がりません。この時には部長も3年目になろうと言う時でしたが、この折伏戦で苦悩する活動が、私の中では始まって行ったのです。