
今回は幕末の歴史について取り上げます。
前回は日米修好通商条約の締結など、諸外国との通商条約を大老の井伊直弼の独断で締結した事を書きました。一般的な歴史では「独断」で締結と言われていましたが、実は井伊直弼自身は独断で締結するという強い意志があった訳でなく、井伊直弼の発言と、それに基づいた現場の判断として、アメリカとの間で、天皇の勅許なく条約を締結する事なりました。
そしてこの結果として、尊王攘夷派の志士により、大老である井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されてしまいました。
◆公武合体派への動き
井伊直弼の暗殺後、老中首座には安藤信正が就任しました。信正は井伊直弼の時から検討されていた公武合体について幕府の体制を立て直そうとしました。

安藤信正は磐城平藩の藩主で、井伊直弼の下で若年寄となっていました。直弼が暗殺されると信正はその事態を収拾し、直弼に罷免されていた久世広周を老中に再任させ、以降2人で幕政を取り仕切る立場になったのです。
安藤信正は井伊直弼の強硬路線を否定し、穏健政策を取る事で朝廷と幕府の間を修復していく事を考え、その際に井伊直弼の時代からあった「公武合体政策」を取る事を考えていました。
この公武合体政策とは、アメリカやフランス、そしてイギリスと条約を次々と締結した井伊直弼の政策に不服をもった孝明天皇が、水戸藩を始め御三家、御三卿などに対して「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」というのを下しましたが、その中で幕閣、外様大名、譜代大名らの協議による「公武御合体」という事を要求していましたが、そこから始まったと言われています。
幕府としては公武合体により天皇家と幕府が協調する事により、当時吹き荒れていた尊王攘夷派を抑える事が出来ると考えていました。具体的には孝明天皇の妹君である若宮を将軍徳川家茂に降嫁させる事を考えて動きましたが、この政略結婚は還って尊王攘夷派を刺激してしまい、安藤信正は水戸藩士に襲われ負傷し、ほどなく失脚する事となりました。これを「坂下門外の変」と呼んでいます。
ちなみに当時のイギリス公使であったラザフォード・オールコックは、この負傷した安藤信正と直後に改憲していましたが、包帯姿で幕府の最高権力者として意地を見せる安藤信正の姿に感激したと言います。
孝明天皇も公武合体後に、幕府が挙国一致体制により攘夷を行うという事を信じ和宮降嫁を認めました。また雄藩は自藩の政治的発言力を高める事を狙い、公武合体政策の周旋に乗り出しました。文久2年(1862年)4月、薩摩藩は幕府を旧一橋派大名との協調路線へ復帰させるために、藩主の父である島津久光が自ら藩兵1000名を率いて上洛し、朝廷に幕府への勅使は県を強硬に要求し、勅使の大原重徳とともに江戸に赴きました。そして一橋慶喜(後の徳川慶喜)を将軍後見職に、福井藩主の松平春嶽を政事総裁職に就ける事に成功し、また安政の大獄で処分されていた土佐藩の山内容堂を復権させたのです。
こういった幕府や薩摩藩とは一線を画していたのが長州藩(萩藩)でした。長州藩では井伊直弼暗殺直後に幕府に対して「航海遠路策」を掲げて接近し公武周旋を図りました。そこでは偉人成敗の様な外国人排斥を「小攘夷」とし、幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させる「破約攘夷」ではなく、むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を強め、その上で諸外国と退行しようという「大攘夷」の考え方を示していました。しかしこの周旋は失敗に終わり、同年(文久2年)には一転して「破約攘夷」の反論を採用する事となりました。そして長州藩は一気に京都を中心に激化する尊王攘夷運動の盟主となっていきました。
文久2年(1862年)12月、江戸城に於いて将軍徳川家茂と和宮の婚儀が虚構され、それは朝廷から将軍家へ正式な降嫁として執り行われ盛大な儀式が執り行われました。そして朝廷と幕府が一体となる事を内外に示す政治的なイベントを目指していたのですが、実際には尊王攘夷派からは「朝廷を幕府が利用している」と批判される事ともなったのです。
幕府としては、何とか朝廷と協力する事で国論を抑え、挙国一致へと動く事を画策しましたが、そこにはそれぞれの思惑が絡み、結果として公武合体政策は失敗に終わりました。
その象徴と考えられた将軍徳川家茂と和宮の間は、とても良好な夫婦関係だと伝えられています。そして和宮は徳川家茂の没後においても徳川家には忠実であったと言われているのが、唯一の救いの様な事ではないでしょうか。