自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

敵国条項と軍国主義について

昨日は良い天気でしたね。

もう間もなく12月なんですが、昨日は比較的温暖な陽気で、箱根や丹沢、奥多摩なども紅葉で多く人出があった様です。

斯くいう私は、昨日は伊豆下田まで行って「下田バーガー」を食べていました。

昨日の伊豆下田もそこそこ人がいたようで、やはり平和に暮らせるのはいいなぁ。。などとハンバーガーを頬張りながらしみじみ感じていた訳です。

そんな中でもスマホを見ると、先だっての高市総理の存立危機状態の発言以降、様々な発言がネットの中を賑わしていました。

この段階で大事な事は、情報を冷静に捉え、そこから事態を見据えて国民は考えていく事だと思いますが、その中から「敵国条項」と「軍国主義」について少し思う事を書いてみます。お時間のある方はお付き合いください。

敵国条項

さて、まず「敵国条項」について。これは主に国内のリベラル層からの発言が多いですね。

 

これは国連憲章の「敵国条項」の事で、第二次世界大戦で連合国と敵対した国(日本・ドイツ・イタリアなど旧枢軸国)に対して、国連安全保障理事会の承認なしに制裁や武力行使を認める特別規定です。憲章第53条・第77条・第107条に含まれます。

•第53条(地域的取極)
通常は地域機関が強制措置をとるには安保理の承認が必要。
→ ただし「第二次世界大戦中の敵国」に対しては例外的に承認不要で制裁可能。
•第77条(信託統治制度)
適用対象に「第二次世界大戦の結果として敵国から切り離された地域」を含む。
•第107条(過渡的安全保障)
戦後の過渡期において、旧敵国に対して講じられた措置(休戦・占領など)は憲章によって無効化されない。

これを日本人が正確に理解する為には、まず国連という名前、これはUN(United Nations)を指しますが、これが国連ではなく連合国という名称だと認識しなければなりません。

多くの皆さんはご存知の様に、国連は第二次世界大戦後に国際社会の枠組みとして設立されたと言いますが、その原型は連合国なのです。ここでいう連合国について、第二次世界大戦とは枢軸国(ドイツ・イタリア・日本)と連合国(アメリカ・イギリス・フランス等)の間の戦争でしたが、この戦争で枢軸国は負け、連合国は勝利したのは周知の事です。そしてこの時の連合国の枠組みを利用して設立されたのが国連という組織です。

日本ではUNを「国際連合」として教育の中で教えてきましたが、UNとは「United Nations」の略語で、直訳すると連合国なんです。第二次世界大戦後、連合国としては敗戦国が短期間で再軍備し再び侵略する可能性が懸念された事から、その場合戦勝国(連合国側)が即時対処できるようにとその安全弁として設けられた規定です。

そしてこの敵国条項国連憲章に定められているので、その改正には国連加盟国のうち2/3の賛成が必要となりますが、そにれは国連大使が「賛成」という為に、各国の国会による議決が必要という仕組みになっています。現在、国連加盟国は193カ国なので128カ国で「削除承認」の議決を経て、しかも国連常任理事国の賛同もあって後、削除が可能となります。

御存じの様に、1945年以降、日本やドイツ、そしてイタリアは再度の戦争なんて起こす事もなく、ドイツに至っては長年の間東西に分断までされてきました。だから敵国条項とは国際社会の枠組みとしておかしな条項となっている事、また参加国のうち128カ国の国会の議決等を鑑みても削除する事が極めて困難である事から、国際連合として1995年と2005年に「時代遅れで削除すべき」との勧告決議が国連総会で採択された訳です。

しかし最近、中国では高市総理の発言からこの「敵国条項」を持ち出し、ある意味で日本に威嚇を仕掛けてきた訳です。確かに死文化しているとは言え、国連憲章に未だ存在している条項なので、最悪この条項に基づき中華人民共和国が日本を攻撃して来たとしても、実際に非難を受けるのは中華人民共和国側であると思います。

そんな中華人民共和国側の思惑にのって、日本人として殊更騒ぐ事に、一体どの様な意味があるのか、正直いまの私には理解出来ないのです。日本としては、こういった中華人民共和国の言動は冷静に受け流しておくべき事だと思います。

そもそもこれを本気で取り上げた場合、一番問題としてあがるのは今の国連の在り方の話へと進んでしまうと思うんですけどね。しかも騒いでいる中華人民共和国は、国連設立当初の国家ではなく、その時の代表国である中華民国(現、台湾)の後を受けた国家に過ぎないのですから、そこもおかしいとは思いませんか?

軍国主義

中華人民共和国や韓国、そして北調整は今までことある度に日本の「軍国主義」について非難をしてきました。

でも私は、いまいま日本でこの軍国主義が簡単に復活するとは思えないのです。

彼の国家では外交の武器として、過去の日本の姿勢を取り上げて、事ある度に日本をけん制して来ましたが、ではそれを受ける側の日本ではどうかと言うと、過去の自分達の国家の行動を国民の大半が「正確」に理解していないので、いわば「言われるがまま」になってきたのではないでしょうか。

過去の日本。これは戦前の大日本帝国を言いますが、確かに戦争で愚かな事をしてきました。しかしこの愚かというのは、例えばシンガポールでの虐殺事件とか、あとバターン死の行軍とか、明治の元勲はとかく国際法規を重要視し、武人としての矜持を持った行動を相手国やその国民に対して取ってきましたが、どうも戦前の日本の軍部はそこが狂っていて、結果多くの悲劇を起こしてきた事は私も否定しません。

この日本が狂った原因の一つとして、大日本帝国憲法の定めた「統帥権」という事があると私は考えています。

統帥権」とは「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定めた条文で、これは軍の人事は天皇の大権に属する事を規定していました。つまり内閣はこの軍人事に関与も出来ず、軍の起こす行動にも制限を加える事が出来なかったのです。

この「統帥権」により、場合によっては当時(戦前)の政府は組閣も容易では無かったのです。これは映画「日本のいちばん長い日」にも描写されていましたが、軍が組閣の内容に反対であった場合、陸軍大臣海軍大臣を送り込まないと決めたら、そこで組閣を阻み政治を止める事も出来ました。

また「統帥権」により、軍の行う軍事行動にも内閣は制限を課す事も出来ず、結果として軍部の暴走に歯止めをかけられないという現実もあったのです。

近代の国家では軍は「シビリアンコントロール文民統制)」が当たり前ですが、戦前の日本にはそういった思想がまるで無かった。それが結果として戦争という国家の行動の中で多くの悲劇を国の内外に及ぼしてしまいました。

まあ明治期の元勲は、すべからく軍人出身で元は武士でしたから、軍部と内閣の齟齬は殆ど無かったんでしょうね。

では戦後の「日本国」ではどうなのか。

軍隊に模した「自衛隊」という組織はありますが、これは法的に見ても国家公務員の集まりであり、軍隊という体を為していません。装備品や組織内の仕組み、隊内の規律や行動はまさに「軍隊」に見えますが、あくまでも「専守防衛」を旨にした行動が許されている国家公務員の集まりでしかないのです。

また当然、「軍隊」の無い国家なので「統帥権」という話しもありません。いまの自衛隊は国民の為の組織であって、天皇や国の政治の為に動く組織では無いのです。

この事から考えてみても、今の日本に「軍国主義への復活」というのはありえません。

そして日本がこの先、中国や朝鮮のいう様に「軍国主義」が復活する可能性があるとしたら、それは「日本国憲法改正」に伴う時に、その可能性はあるでしょう。でもそれはあくまでも「日本国家の内政」に関わる問題なので、本来、外国にとやかく言われる筋合いの事ではないと思います。

とはいえ、昨今の日本を取り巻く国際情勢の中で、「憲法改正論議」は起きて来るでしょう。その場合、日本人として「軍国主義」を復活させない為には何が必要なのかと言えば、過去の歴史の事実を日本人として正確に理解する事だと私は考えているのです。

例えば大日本帝国憲法の定めた「統帥権」が如何なる問題を引き起こしたのか。これについて日本では学校教育の場で正確に教育もしていません。また国家間で起きる戦争という行為についても、その発生に至る内容を国民は詳細に教えられても居ないのです。

また戦後八十年の日本社会の安寧の裏には、日米安保条約があって、日米関係の上の国際的な立ち位置があっての事でしかなかったという事実も理解すべきです。

戦後の日本人が教わった事は、「戦争の放棄」と「軍を持たない」という事だけで、それによって戦後の平和が実現出来たという、実に曖昧な事しか教わっておらず、国際情勢の事や、人類の歴史は戦争に彩られて来たという事実すら教えていません。そんな中で「憲法改正論議」がまともに行えるのでしょうか。

だから私は「憲法改正論議」の前に、多くの国民が日本の近代史の出来事を理解する必要があると思うのです。そしてその上で、どの様な憲法であるべきか、広く議論がなされるべきだと考えているのです。

だから「軍国主義の復活」という指摘をされた場合、日本としてはそれに単純に阿諛し、指摘された国に謝罪をするとか、反省の弁を述べるたけではなく、今日本のある現状の姿と、これから未来に向けた必要な姿について、しっかりと過去の事実(FACT)を元に考えるべきでしょう。

 

敵国条項」や「軍国主義」に対して、どうも日本人の反応を見ると、表層的な事しか述べておらず、私はそこに本当の危険性を感じてしまいます。それこそ中江兆民の指摘した「日本人には哲学性が無い」という言葉だと思っているのです。