
幕末の動きで、とても重要な動きをした藩があります。それは長州藩です。
「明治維新という名の洗脳」(苫米地英人著)には、とても興味深い内容が書かれていましたので、それを参考に少しこの長州藩について自分が感じた事を書いてみます。
◆長州藩という藩は無かった
これは苫米地氏の歴史観の上の話ですが、私達が学んで来た歴史には常に長州藩というのは在った様に理解していますが、実際にはそれは最近呼ばれていた事であり、実際には萩藩と呼ばれていたそうです。
ただし、これは司馬遼太郎氏の歴史観の影響なのか、それとも近代史をその様に日本の歴史学者が呼んでいたのか、定かではありませんが、一般的に私達の中では長州藩という名称が通りますので、このブログでは今後も長州藩という名目を使う事にします。
◆留学生派遣
幕末の歴史を見ると、長州藩は尊王攘夷の雄藩として名を馳せますが、例えば文久3年(1863年)馬関海峡(現在の関門海峡)で外国船に対して砲撃をしました。これは「下関事件」と呼ばれていますが、この時、孝明天皇は「攘夷を実行せよ」と幕府に命じていましたが、幕府は実行をためらっていました。それまで長州藩は「航海遠路策」を以って日本の主導権を取ろうとしましたが、それが失敗。結果として長州藩の藩論は一気に「破約攘夷」に移った頃の時期でした。
これにより、木戸孝允や高杉晋作が藩論の中心を担った訳ですね。
江戸幕府では将軍の徳川家茂と和宮の婚儀が盛大に行われ、「公武合体政治」のシンボルとなるかと思われたのですが、これを「朝廷の威信を幕府が利用した」と言い、それ以降に長州藩を中心にした尊王攘夷派が京都を中心にして激化させていった時期でもあります。
孝明天皇が公武合体を了承したのは、幕府がその後、攘夷実行をすると信じた為でしたが、実際に幕府としては攘夷実行をする気が無かったのです。その中で長州藩は孝明天皇の思いを受けて、攘夷実行の具体的な行動として「下関事件」を起こしました。
しかしその結果は、文久4年(1864年)8月に、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四カ国連合艦隊により下関が砲撃されてしまったのです。これを「馬関戦争」と呼びます。結果、長州藩は敗北し、賠償金支払いと馬関海峡の砲台撤去を余儀なくされたのです。
ただこの様な「表の歴史」の裏で、長州藩はイギリスに向けて密航留学生を派遣してます。ここでいう密航とは幕府には秘密裡という意味です。
長州藩が「下関事件」を起こした文久3年5月、その事件の2日後に、伊東俊輔(博文)、井上聞多(馨)等藩士5名をイギリスに密航させていたのです。そして実は「下関事件」は外国船を攻撃したと言われていますが、そこで攻撃の対象となったのは、アメリカ商船とフランス軍艦、そしてオランダの軍艦であり、イギリス艦船は含まれていませんでした。
長州藩から密航留学生を受け入れたイギリスは、後の馬関戦争では他の三か国と共に長州を攻撃している。実はここに幕末の歴史の「裏」が隠されていると、苫米地氏は読み取っています。
これは中々鋭い視点だと思いました。
私達が歴史の中で学ぶ事には、こういった事は書かれておらず、個人的には大河ドラマ「龍馬伝」をいま改めてみると、こういった事が隠されていた事も納得します。
私達の幕末史観の中心は、「司馬史観」と言いますが、作家の司馬遼太郎氏の描いた幕末小説が中心にあったりしますが、そこではこういった事は一切、描かれていないのです。
◆明治維新を支えた金庫
一部の歴史では、幕末から明治維新にかけて、日本は内戦状態となならず「江戸無血開城」に代表される様に、平和裏に移行したという話しもありますが、実際には鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争にかけて、日本国内は新政府軍と幕府軍との間で激しい内戦状態が続きました。そしてその内戦を資金的に支えたのも長州藩でした。
具体的に言えば慶応元年(1865年)から翌年にかけて、長州藩はミニエー銃4300丁、ゲベール銃3000丁、木造蒸気船3隻、鉄製蒸気船1隻などを購入していますが、その為の資金は少なく見積もっても15205両あったと言います。
それ以前にも藩をあげて攘夷実行を唱えていた事から武器弾薬の経費はかさんでいたので、一節によれば明治維新前後で100万両から150万両、現代の貨幣価値に換算すれば最大100兆円もの規模に達している金額を長州藩は支出していた事になります。現在の日本の国家予算が90兆円なので、この規模は一つの藩で賄える資金には見えません。これは恐らく外国から資金を工面したと思いますが、工面するにしてもその基となる資金が無いとお金は調達できないでしょう。
これに対して近年では、ロスチャイルド家やフリーメイソンの意を受けた長崎の武器商人トーマス・グラバーたちが金を貸していたという説がいわれていますが、これに加え長州藩だけでなく薩摩藩も彼らから借りた金で武器を買い、明治維新を成し遂げたというのです。
当時の欧州ではロスチャイルド家が金融界を牛耳っていたので、大枠海外から資金を工面したという事であれば、この説も強ち間違いとか陰謀論という話しではないとおもいます。しかし彼らとて金融業であれば、当然、与信調査を行い、貸し付ける際にはそれなりに返済能力を示さないと安易に資金調達には応じないと思います。
つまり明治維新の際、その中心となった長州藩には、それだけ大きな資金を保有していたという事ではないでしょうか。だから下関事件の際、藩費で5人の留学生をイギリスに密航をさせる事も出来ましたし、それだけ大きな資金を海外から調達も出来たのでしょう。
そしてそこには、実は長州藩として「裏会計」を持っており、公表された石高とは別に、資金をため込んでいたというのです。そしてこの「裏会計」が、明治維新後に大蔵省、そして現在では財務省へと、その仕組みが受け継がれている、苫米地氏は読み解いていました。現在で言うところの「特別会計」ですね。
これはとても興味深い内容です。
この辺りについては、この先、もう少し読み込んでみてから紹介したいと思います。
幕末から明治維新にかけての歴史とは、例えば大河ドラマで描かれてる「表の歴史」とは異なる「裏の歴史」というのが、どうもあるようなのです。長州藩の動きの中に、そういった事も見え隠れしています。
【参考資料】
苫米地英人. 明治維新という名の洗脳 (p.14). Cognitive Research Labs. Kindle 版
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