自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

創価学会の役職について(9)-創価班班長の事(広宣部)

さて、創価学会の役職の件を続けます。

今回は広宣部の事を書いていきます。創価班と言う組織では当時「運営畑」「広宣畑」と呼んでいましたが、私の場合は組織の部長と共に創価班長をやっていて、そこに広宣部というのが常に付いていました。だから周辺からは「広宣畑の人」という見られ方をされてもいたのです。

今はどうか判りませんが、当時は第二次宗門問題の最中でしたので、様々な事がありました。ここでその事について少し書いてみます。

顕正会との件

この当時の年齢になると男子部でも中堅処なので、広宣部でも様々な事がありました。会館運営は月に2回程度でしたが、広宣部は毎週何かしらありました。特に顕正会については、どこそこの高等部が入会届を書かされたとか、女子部がいまファミレスで顕正会に拉致られているので、直ぐに行けとか連絡が入ると、身近に連絡とれる同じ広宣部のメンバーを最低でも1人連れて場所に急行しました。

何故常にもう一人、同行させたかと言えば、もし対論を1人で対応すると、相手が複数であった場合には、話題をいなす事が出来なくなるからという事と、特に顕正会では暴力で訴えて来る若い顕正会員も偶にいたので(これはマジです)、そういう場合には1人で対処するのも難しい状況を想定しての事でした。

ある女子部が拉致られた時には、ファミレスに急行してみると、そこにいたのは見知った顕正会幹部でした。

「なんだお前、まだこんな事やっていたんか。。」

そう声を掛けると、相手も私を見て驚いていました。私の名前を憶えていたんですね。

「また斎藤さんか、何故何時もアンタが出て来るのさ(ため息)」

こんなやり取りもありました。それ以外でも別の区からの依頼で未来部が〇〇にあるファミレスで拉致られていると支援の依頼があったので、駆け付けると、顕正会がまさに未来部あいてに「これは法論で良いですか?」なんてやっている訳です。

そこで声掛けして、その未来部(高校生)の知人という事で自己紹介をすると。

「あれ?あんたが斎藤さんなの?始めまして」

なんて言われました。聞くとその地域の顕正会の中でも私の名前が語られていたらしく、私の名前を聞いていたとの事。この時は直ぐに未来部を解放して顕正会を退散させました。

こんな事、別に好き好んでやっていた訳ではないんですけどね。

法華講との事

これは隣の本部の婦人部からの相談で、その人が住むアパートに引っ越して来た若い夫婦がいて、引っ越しの挨拶の時に、その婦人部の玄関先にあった聖教新聞を見て旦那が「貴方は創価学会員なのですか?」と聞かれたので「はい」と答えてから、その夫婦から同じアパート中に何かと学会中傷ビラを撒かれるようになり、その婦人部が若夫婦に苦情を言うと「それでは一度、法論をしましょう」と言われたとか。それで婦人部を通じて区から私の処へ連絡が入ってきました。

指定された日、少し早めに婦人部のアパートにお邪魔して、若夫婦の来るのを待ちました。すると時間より早く若夫婦が来ましたので私は地元の男子部という事で自己紹介を行いました。聞くとその若夫婦は某近傍寺院の法華講に所属していると言いました。

対論になると、旦那の方はかなり自信があるらしく「法主血脈論」と、それに基づく「偽本尊論」を振りかざしてきましたが、こちらは稚児法主の話と、そもそも大石寺貫首の中には京都要法寺から来た貫首がいる事を指摘し反論、また日目師の書写本尊の中には、日興師の存命中(相承前の年代)に認められたものがある事を述べ、血脈に基づく偽本尊論を否定しました。

対論とは、よく「法の正邪を論証する」という事だと言われていますが、この当時、創価班の班長の頃になると、顕正会法華講幹部との対論も幾つか熟してきたので、論点の持っていき方のテクニック等をある程度習得していました。だから「勝った」という形への持って行き方に相手を誘導すれば、大抵は何とかなるモノなのでした。

創価学会の対論とは、大体においてこのテクニックにより「勝利した」という形を作るものでもあり、これは彼の「小樽問答」にも顕著に顕れています。この辺りは「小樽問答」の録音を聞くと良く解りますが、残念な事に近年では中々聞く事は出来ません。

対論で大事な事は、同席している会員に「創価学会は勝った」という姿を見せる事でした。

しかし偶にディープな内容となる場合、これは主に妙観講大石寺理境坊所属の講)を相手にする時でしたが、こちらの知らない論点を示される事もあって、足許が救われる事も時々あった様です。

話を少し戻します。

この若夫婦との対論も1時間ほど過ぎると、相手の旦那の方でも手元の駒が無くなってきたようで、同じ事を繰り返す様になってきたので、そろそろお開きを提案しました。「これ以上話をしても進展ないですね」と。すると奥さんの方が強い語気で言ってきました。

「貴方たちは正しい仏法に背いているのだから、この先必ず現罰が出るから覚えてらっしゃい!!」

実はこの当時、私の中には「功徳」とか「罰」の捉え方が変化をしてきていた時期でした。要は功徳も罰も本人の生活の中での感覚でしかなく、そもそも信心とは功徳を求めるものでも無いし、罰と言っても相手が認識しなければ、そんな現証はまず置きないのではないか、実際に日顕師は当時健在でしたからね。また様々な部員の家庭を回り、彼らの生活を見ていく中で、実感としてその様な事を感じ始めていたのです。

私は彼らに言いました。

「人に対して罰が出ると言いますが、今回の対論に於いても私の提示した事に何ら反証すら出来なかったのは貴方達ですよね。あまり言いたくありませんが、仏法に背いて罰が出ると言うならば、それは貴方達の方ではないのですか?」

ちょっと語気を強めて言うと、相手の夫婦はそそくさと出て行ってしまいました。

それから数週間後、ある区の会合でその婦人部に会う事があり、同じアパートに住んでいる若夫婦の状況について聞いた処、若夫婦には3歳に満たない子供が居たそうですが、対論の3日後に子供が夜中に救急車で運ばれたそうです。そこで婦人部は見舞いに行くと、何でも原因不明だったらしく、夫婦は憔悴しきっていたとの事でした。

婦人部も心配になったそうで、若夫婦の様子はちょくちょく見舞いを兼ねて行っているそうですが、あれ以来、大人しくなっていると聞いて「やっぱりそうか」と思うと共に、婦人部には良く若夫婦には声掛けをしてあげて下さいと言いました。

 

創価班の班長時代の広宣部の行動で、少し思い出深い内容について書かせて頂きましたが、この当時は月に何回かは、対論の場がありました。やはりこれは第二次宗門問題で、創価学会が破門され、それに乗じて顕正会法華講が活動を活発化させた時期でもあったからではないかと思っています。

これ以外にも、ある正宗寺院の法華講青年部の幹部や、ある時には東京にある古刹正宗寺院の所化と対論した事もありましたが、こういった場数が増えた事もあり、当時の総々県の広宣局長にも目を掛けられたのか、対論大会などでは対論の審判や論評などをする役員にもなったりする等の機会も増えて行ってしまったのです。