自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

創価学会の役職について(10)-副本部長時代

さて、創価学会の役職経験の事について続けていきます。

しかしこうして今から四半世紀以上前の経験を書こうとして、記憶の糸を手繰り寄せていますが、この当時は本気で「50歳まで生きたら御の字だな」なんて考えても居ました。とにかく休日も無いし恒常的に睡眠時間は足りてませんでした。

昼間は会社で仕事をしていましたが、システム提案に見積もりの作成、また部下の指導や仕事の割り振り、そして自分の作業をこなす中で部下の仕事のチェック。それに営業対応等をこなしていました。そして平日は1日~2日は17時半には会館に行き創価班や会合などに参加。なければ地元で家庭訪問や様々な打ち合わせをこなし、夜中の1時には会社に戻って4時位まで仕事して帰宅。翌朝は8時には出勤というペースでした。

ある時には背広姿で自宅の布団の上で、胡坐姿のまま寝てしまい、朝を迎えた事もありました。

こんな状態だったので、部員の奥さんからは「斎藤君には彼女は紹介できないなぁ」と言われた事もありました。理由を聞くと「忙し過ぎる」がその理由でした。奥さんがいうには「彼女が居ても会う時間なんて無いでしょ?」と言われてしまい、苦笑いをしたものです。

広宣流布は命を懸けて行う大事業なんだ」

こんな事を男子部の仲間内で真剣に語らう事もありましたが、この当時は歯茎が腫れたり、歯も2~3本(奥歯ですけどね)割れた事もありました。みぞおちに差し込む痛みを感じる事も度々で、何気に体が悲鳴を上げていたんですね。

今から考えたらもう少し体を労わってやれば良かったと思いますが、当時の私にはそれが出来なかったのです。

◆副本部長に

私は26歳で部長、創価班では班長となりましたが、それを5年間やり続けていました。偶に会館で先輩と語らう時もあって、当時先輩(区主任部長)からは「お前は本部幹部の人事は無いのか?」と質問をされる事も良くありました。通常、部長は2~3年で副本部長か本部長に上がるのですが、私にはそんな話は一向にありません。

まあそもそも役職上がる事には興味も無いし、地区リーダー当時に大先輩だった地区部長から言われた「組織内の政治生命」なんて言葉は糞くらえと思っていました。

当時、私は同じ区内の気が合う部長連中と雑談する時「早く副本部長になってマイペースな活動をしたいよなぁ」と言っていました。当時の男子部では「正役職」と呼んでいましたが、部長-本部長-区男子部長が活動の中、軸で進んで行きます。副役職になると、そういうラインの脇にずれるので活動量は減るのが一般的でした。(とは言っても、それでも相当量はあったんですけどね)

部長も5年を過ぎると30代を越えた年齢になるので、そろそろ「楽したい」という気持ちも芽生えてくるという物です。

そんな中で、漸く私にも「副本部長」の打診が来ました。

何でも同じ本部内の部長が本部長になる事に合わせて、私を副本部長にするというのです。ただし部長は兼任で本部内の他の支部へ派遣で部長を兼任するというオマケ付きでした。

私の後任は学生部の幹部が男子部移行で部長となり、副部長には兼任で地区リーダーが宛てられるという人事でした。

「え~、、部長兼任かよ、しかも派遣で〇〇支部

要はまったく楽になるどころか、副本部長という事は、本部の報告関係の集計とか、時と場合によっては本部長の代わりをする事もあるわけで、要はやる事だけが増えるという事を意味します。

またそれだけではありません。

派遣先の支部は本部内でも一番大きな支部で、5地区統監数120名の大所帯。副部長1人に地区リーダー5名、地区副リーダーも1名いて、活動家の人数は30名近くいました。要は本部内で牽引する支部でもあった訳です。

「副本部長となり少しは楽したい」

こんな僅かな願望も砕け散ってしまったわけです。

いざ派遣の部長として任命を受け、支部内の挨拶回りをしてから副部長にお願いして地区リーダー会をやったのですが、今までいた支部とはまるで違う事に、初めは中々戸惑いました。でも各地区リーダーがしっかりしていた支部でもあったので、もう細かい事は地区リーダーに任せてしまい、この時の私は支部内の盛り上げ役に徹しました。この支部では1年間の間、部長として活動しましたが、私自身、肩から力を抜いてやっていたので、結構楽しい思い出もありました。時間貧乏には拍車はかかりましたけどね。

この支部では折伏戦となると、私も地区リーダーや班長の友人に会わせてもらったりして、入決(いわゆる入信決意)も10以上は上がりました。でも御本尊授与は中々出来なかったんですよね。

この当時も深夜の区男懇談会は行われていましたが、当時の区男子部長や区書記長も、私と一時期は同じ部長でやっていた先輩でもあったので、気兼ねなくやれてもいました。

副本部長としては本部部長会の時には事務関連の伝達とか、場合によっては本部長が敢えて言わない事も言及すると言う、いわば「うるさ方」をする事もありました。また本部長が時間が取れない時には、区執行会議とかにも幾度か代理で参加したりもしたのです。あと地区リーダー人事が本部内にあった時には、「人事申請書」を作成して、壮年婦人の本部長宅を回りハンコを貰い、区に提出するという事もやりましたね。

◆副本部長の人事の裏について

実は私の副本部長人事ですが、これは副本部長になって半年ほど経過した時に、とある区幹部の先輩から「裏事情」として聞かされた話がありました。

私の区から県幹部になった某大先輩が居て、その大先輩は県の男子部の中でも発言力をかなり持っていた人だったのです。実は私はその大先輩から何故か私は嫌われていた様で、私が5年も部長をしたのは、その先輩が「斎藤、ありゃ駄目よ」と言い続けていたからだと言うのです。3年ほど経ったときに実は副本部長に上げる話もあったそうですが、その人事案をその大先輩が却下したとの事でした。

結果として区の創価班体制がかなり歪になり始めたそうで、男子部卒業人事も絡んで、要は区幹部が枯渇し始めたという状況が見え始めたとの事。要は組織の新陳代謝に滞った状況が起きてしまったそうなのです。

前の記事に書きましたが、創価班で区幹部に宛てる為には組織で本部幹部でなければならないという規定が当時はありました。そこで区創価班の組織体制を刷新する為に、私の他もう1名(これは他の本部でしたが)を本部幹部に引き上げたそうなのです。

この時、私を嫌っていた大先輩も男子部を卒業した事もあって、私を副本部長(兼任)にして、区の創価班でも区副委員長にして、併せて区広宣部長へと引き上げるという人事になりました。

という事でこの副本部長人事と共に、私は創価班の中で班長から部長を経ずに、区広宣部長に引き上げられてしまったんです。

これは正直やりづらかったですね。

前日まで創価班で私は班長として、その上には部長がいたのですが、任命日を境に私は区広宣部長(区副委員長)となり、部長を飛び越してしまったんですからね。1週間前まで会館運営では部長が総括としていて、私はその総括の指示で動いていた班長だったのに、その1週間後に会合運営に私が着くと指揮とか呼ばれるわけですよ。そしてその部長からは「最後に斎藤広宣部長から一言」なんて言われても、「はい、わかりました」なんて言えません。

役職の二階級特進なんて、おれは戦死者か殉教者か?

 

以上が副本部長についての話です。

ここまで読んで頂くと解ると思いますが、本部幹部以上になると、部員や会員目線の話よりも、組織目線の事がとても多くなってくるんですね。

これが全く面白くありませんし、本音で言えば不快に感じる事も、実は副本部長時代から徐々に増えて行きました。まあ本部になると統監数でも500名近い組織ですし、活動家にしても100名程度の組織でしたので、組織論としてもそういった傾向が強くなってくるのでしょう。

この当時は「男子部本部旗」というのがあって、それは副本部長の私の家で保管する事にもなり、本部の会合や区の会合では壇上後ろに立てたりしてましたからね。

この副本部長以降になると、組織的な論理が目に着く事も多くなり、私自身、辟易とする事も少しづつ増えて行きましたが、それはまた次の記事で書きたいと思います。