自燈明・法燈明のつづり

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寺田屋事件と生麦事件

前回は公武合体政策について少し書いてみました。その後、長州藩について少し触れましたが、ここで再度、公武合体制政策前後に時代の眼を移し、見て行きたいと思います。

公武合体政策その推進役となっていたのは薩摩藩島津久光でしたが、久光は徳川家茂和宮の婚儀の後、京都に入京し、寺田屋で藩内の攘夷派を一掃したのです。これは「寺田屋事件」と呼ばれています。またその後、島津久光は江戸に入り一橋慶喜将軍後見職に、松平春嶽政事総裁職にさせる等を実現し、江戸から京都へ戻る際に起こしたのが「生麦事件」でした。

寺田屋事件とは

寺田屋事件は、文久2年(1862年)4月23日、京都の伏見にある旅館の寺田屋に滞在していた尊王攘夷の過激志士が弾圧された事件です。

薩摩藩の国父(藩主茂久の父)である島津久光は、この当時、尊王攘夷派の期待を背負っていましたが、久光自身には倒幕の意思はなく、公武合体制政策を推進する事を考えていました。もともと島津久光は秩序を重んじる厳しい性格で、この当時は既に西郷隆盛村田新八森山新蔵らを捕縛して大阪から帰藩させるように命じて粛清していたのです。

そして4月13日の京都の伏見に到着した久光は15日に入京すると朝廷より志士の始末の命を受けました。

この展開に驚愕した薩摩藩の過激派は憤激し、有馬新七柴山愛次郎、樋口壮介らは諸藩の尊王攘夷派の志士である真木和泉、田中河内介らと共謀して、時の関白である九条尚忠京都所司代酒井忠義を襲撃し、その首を久光に持って行き示す事で、無理やりにでも倒幕蜂起を促す事を決めました。そしてその襲撃前に、根城としていた薩摩藩の二十八番長屋から出て、伏見にある船宿の寺田屋に集まる事を計画しました。当時の寺田屋薩摩藩の定宿であり、この様な謀議を行う場所としては恰好の位置にあったのです。

この志士暴発の噂を聞いた久光は、側近である大久保一蔵(後の利通)、海江田武次、奈良原左衛門を派遣して説得を命じました。

しかしこの説得は失敗し、薩摩藩邸では決起を止められなかった為に永田佐一郎が切腹したのです。これによって決行日が迫ったことを知った在番役の高崎佐太郎、藤井良節の二人は急ぎ京都の久光に注進しました。この事を知った久光は驚き、出奔藩士を藩邸に呼び戻し自ら勅使と事と今後の方針について説明して説得を考えましたが、一方でもし従わぬ場合には上意討ちもある事を言い含めて、奈良原喜八郎、大山格之介、道島五郎兵衛、鈴木勇右衛門、鈴木昌之助、山口金之進、江夏仲左衛門、森岡善助といった、特に剣術に優れた藩士8名を選んで派遣する事にしました。

23日の夜、派遣士たちが到着すると、奈良原喜八朗ら4名は、有馬新七に面会を申し出ました。しかしこの時、2階から樋口伝蔵に「いない」と断られたので、江夏と森岡が力づくで2階に上がろうとして押し問答になりました。この時、柴田愛次郎が対応して1階で面談をする事になりました。しかしこの面談では埒が明かず、派遣された藩士は藩邸への同行を求めました。しかしこれは拒否をされてしまい、そこに大山格之介他4名が追いつき寺田屋に入ってきました。ここで奈良原は説得を続けましたが、この時に「君命に従わぬのか」と激高した道島が「上意」と叫んで田中謙介の頭部に切りつけ、そこから激しい乱闘になってしまったのです。

この乱闘の結果、派遣士側では福島五郎兵衛が死亡、森岡善助が重傷、奈良原喜八郎、山口金之進、鈴木勇右衛門、江夏仲左衛門の4名が軽傷を負いました。一方の志士側では有馬新七を始め6名が死亡、2名が重傷を負いましたが、この2名は後に切腹を命じられたのです。その他、当時2階にいた21名の薩摩藩士は投降しましたが、彼らは帰藩謹慎が命じられる事になりました。

また寺田屋には他藩の尊王攘夷派の藩士も居ましたが、多くは投降し何名かは逃亡しました。しかし捕縛された他藩士は各藩に引き渡され、土佐藩に所属する藩士土佐藩に引き渡されました。

この寺田屋事件により、朝廷からは島津久光への信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現の為に江戸へ向かったのです。

生麦事件

生麦事件文久2年8月21日に、武蔵国生麦村(現在の神奈川県鶴見区生麦)付近で、島津久光の行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷した事件です。

これは寺田屋事件により朝廷の信頼を大いに上げた久光が、幕政改革を志して700名を超える軍勢を引き連れて江戸に出向いた後、幕政の改革を行い、勅使の大原重徳と共に京都へ戻る事になりました。

久光は大原の一行よりも1日早く400名の軍勢を連れて江戸を出発しました。

八つ時(午後2時)頃、行列が生麦周辺に差し掛かったおり、4名の騎馬のイギリス人と行き当たりました。この時のイギリス人は、横浜でアメリカ人経営の商店に勤めるウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸聖人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従妹で香港在住イギリス人商人の妻で、横浜に観光に来ていたマーガレット・ポロデールズ夫人、上海で長年商売をし、この時に来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンの4名でした。

この時の状況は生麦村住人の届出書や神奈川奉行の役人覚書、また当時イギリス公使館の通訳見習いだったアーネスト・サトウの日記を突き合わせると以下の様な経緯だと言われています。

行列の先頭にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れて来た騎乗のイギリス人4名に対し、身振り手振りで下馬して道を譲る様に説明しましたが、イギリス人たちは「脇を通れ」と言われただけだと思い込んでいました。しかし久光一行の行列は道幅一杯に広がっていたので、結果として4名のイギリス人たちが行列の中を逆行して進む形になってしまいました。鉄砲隊を突っ切り、ついに久光の乗る駕籠の直ぐ近くまで乗り入れる形になったところで久光の供回りの声にまずいとイギリス人は気付いた様ですが、しかしこの段になってもイギリス人たちは下馬する発想もなく、今度は「引き返せ」と言われたと受取り馬を反転させようと動き、それが結果として無遠慮な行動に見えた事から、薩摩藩士数名が抜刀して切りかかったと言います。

4名はこの時に驚いて逃げようとしましたが、時既に遅く、リチャードソンは深手を追い桐屋という料理屋の前から200メートルの場所で落馬したところ止めを刺され、マーシャルとクラークも深手を負いながらも神奈川にあった当時のアメリカ領事館として使われていた本覚寺に逃げ込み、ボロデール婦人は一撃を受けたが無傷で逃げおおせ、横浜の居留地に逃げ戻り救援を訴えました。

この事件は、それまでに起こった攘夷殺傷事件とは内容が違っていて、個人的な行為ではなく、大名行列の供回りの多数が一斉に斬ったものであり、直接久光の命令こそなくとも、暗黙の了解の下に行われていたことは歴然としていました。事件直後、各国公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって開かれた対策会議でも、「島津久光、もしくはその高官を捕虜とする」という議題が挙がり、下手をすれば戦争に直結しかねないだけに、イギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねる事になったと言います。

翌年の文久3年(1863年)の年明け早々に、生麦事件の処理に関するイギリスのラッセル外相の訓令がニール代理公使の元へ届きました。これに基づき、2月19日、ニールは幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求し、さらに、薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告しました。そして幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港したのです。

この時、折しも将軍・徳川家茂は上洛中であり、滞京中の老中格小笠原長行が急遽呼び戻され、諸外国との交渉にあたる事になりましたが、賠償金の支払を巡って幕議は紛糾しました。その後、水野忠徳らの強硬な主張もあって一旦は支払い論に決しますが、支払期日の前日(5月2日)になって支払い延期が外国側に通告されたのです。これにニールは激怒し、海軍省の訓令下にあるオーガスタス・キューパー提督に委任すると軍事行動を示唆し、横浜では緊張が高まりました。

再び江戸で開かれた評議が行われましたが、水戸藩の介入もあって逆に支払拒否が決定されるますが、5月8日、小笠原は海路横浜に赴き、独断で賠償金交付を命じ、翌9日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送されたのです。一方、英国と老中の板挟みになっている神奈川奉行たちから攘夷令に反対をされた一橋慶喜は説得をせずに小笠原と入れ違いに8日に江戸に戻って来ており、小笠原との間に支払を巡る黙契が存在していたという説もあります。小笠原は、支払を済ませたのち再度上京の途に就きますが、大坂において老中を罷免されたのです。

この生麦事件は、その後の薩英戦争の遠因となっていくのです。