
さて「生麦事件」によりイギリス政府は幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求し、それと合わせて薩摩藩は幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を派遣して薩摩藩と直接交渉し、犯人の処罰、及び2万5千ポンドの賠償金を要求する事を幕府に通告していました、
◆薩摩藩との交渉

文久3年(1863年)5月9日、イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府から生麦事件の賠償金10万ポンドを受け取りました。そして6月22日、ニールは直接交渉の為に7隻の艦隊と共に横浜を出港し、6月27日にイギリス艦隊は鹿児島湾に到着、鹿児島城下の南7kmの谷山郷沖に投錨しました。この時薩摩藩は総動員体制に入り、先の寺田屋騒動の謹慎も解かれました。
6月28日、イギリス艦隊はさらに前進し、鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨しました。この時に艦隊を訪れた薩摩藩の使者に対してイギリス側は国書を提出し、そこでは生麦事件犯人の逮捕と処罰、また遺族への「妻子養育料」として2万5千ポンドを要求しました。しかしこの要求に対して島津家は回答を保留し、翌日に鹿児島城内において会談を行う事を提案しました。しかし翌29日にイギリス側では城内での会談を拒否し早急な回答を求めたのです。
島津家は「生麦事件に関しては責任はない」という返答書をイギリス艦隊に提出し、イギリス側の要求を拒否しました。この時、イギリス艦隊は桜島の横山村・小池村沖に移動をしました。
この時、薩摩藩士の奈良原喜左衛門らはイギリス艦隊が薪水や食料を求めたのに対して奇襲を計画し、海江田信義、黒田清隆、大山巌らが国書に対する答使と果物・スイカ売りに変装し艦隊に接近しました(西瓜売り決死隊)。この使者を装った一部は乗艦に成功しましたが、艦隊側に警戒されてほとんどの者が乗船を拒まれたため、奇襲作戦は中止され、奈良原らは退去したのです。
7月1日、ニール公使代理は島津家の使者に対して、要求が受け入れられない時には武力行使に出ると通告しました。この通告で島津家は開戦を覚悟し、藩主の島津茂久と後見役である島津久光は、鹿児島城がイギリス艦隊の射程内と判断していたため、新たに本営と定めた鹿児島近在の西田村(現、鹿児島市常盤)の千眼寺に移りました。併せて城下の上町や下町の町人地域にも避難指示を伝えました。
◆戦闘開始
イギリス簡単の旗艦ユーライアラスには、幕府から得た賠償金が積まれていました。イギリス側は薩摩藩との交渉を有利にするために7月2日の夜明け前に薩摩汽船3隻を略奪しました。
それを知った薩摩藩では正午になると薩摩砲台へ砲撃が命じられましたが、イギリス艦隊側では薩摩藩の砲台の存在を知らず、イギリス艦隊のパーシュースの艦長は、命中弾に慌てふためき錨の切断を命令して、その場から逃走しました。
その後、艦隊と薩摩藩の台場(砲台)との間で砲撃戦となる中で、イギリス艦隊では先に略奪した薩摩汽船3隻から貴重品を略奪した後、汽船3隻を崩壊して沈没させました。
薩摩藩とイギリス艦隊の砲撃戦では、イギリス艦隊の精緻な砲撃により、薩摩藩側では大砲8門が破壊されました。薩摩藩側ではこの時の暴風雨の影響によって、砲台への浸水、またイギリス艦隊の砲に比べて短距離の射程でもありましたが、薩摩砲台に接近する艦隊は機関故障などもあり、薩摩藩側に有利な戦闘展開にもなっていきました。
午後3時頃、薩摩側の砲台が砲撃した弾丸1発がイギリス艦隊のユーライアラスの甲板に着弾し、そこに居合わせた艦長や副長など士官が戦死、この場にはキューバ―提督(司令官)も同乗していましたが、軽い負傷のみで助かりました。またこの時、イギリス艦隊のレースホースは波浪と機関故障により薩摩側の砲台手前で座礁してしまい、避難用に艦から小舟が降ろされましたが、これを見た薩摩藩側では上陸に備える動きをりました。
この座礁したレースホースはその後、イギリス艦隊の僚艦により救出、曳航されて移動しましたが。イギリス艦隊は薩摩側に盛んに砲撃を加え、薩摩集成館一体を攻撃し悉く破壊しました。またこの時、たまたま琉球王国の王子である与那城朝紀が琉球使節団で赴いていて、その琉球船も砲撃に晒されましたが、薩摩側で伝馬船を出して王子を救出しています。そしてこの日の砲撃は午後8時ころまで続き、薩摩藩側では城下では民家や侍屋敷、また寺社など多くが焼失してしまったのです。
翌7月3日も薩摩藩の砲台とイギリス艦隊の間で激しい砲撃戦が続き、市街地が焼失しました。中でも薩摩藩の砲台が砲撃され、そこにあった火薬庫が爆発するなどがありましたが、イギリス艦隊側でも被弾をした様です。
7月4日になると、イギリス艦隊側でも弾薬や石炭燃料が消耗し、多数の死傷者を出した事から薩摩から撤退する事にしました。その中でも座礁したレースホースの損傷が著しく自走が出来なくなった事から、僚艦に曳航されて撤退したと言われています。
◆戦闘の結果
薩摩側の砲台によるイギリス艦隊側の損害は、大破1隻、中破2隻、死傷者は63名で、その中には旗艦ユーライアラスの艦長ジョンスリングや副長ウィルモットなど13名の死者がありました。
一方で薩摩側では多くの砲台が破壊され、死者3名、負傷者14名を出したほか、家屋が350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻など軍事施設以外への被害が甚大であり城下町の10分の1が焼失してしまいました。
またこの薩英戦争に対するイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているにも関わらず、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要ない攻撃であったとして、イギリス艦隊のキューバ―提督が非難されたのです。
この薩英戦争の戦後の処理の交渉について、9月28日に第一回和睦の談判が横浜にある英国公使館の応接室にて行われました。薩摩藩側からは島津家の重野厚之丞(安繹)、補佐として同岩下左次右衛門、佐土原島津家の家老の樺山久舒(舎人)、能勢二郎左衛門(直陳)などが出席しました。
この時、代理公使のニールとの間で交渉が行われましたが、薩摩側ではイギリス艦隊が薩摩汽船を略奪した件を追求しましたが、イギリス側では生麦事件を挙げてきて、結果として交渉は紛糾し決裂してしまいました。
10月4日に第二回目の交渉が行われましたが、薩摩藩側とイギリスの交渉は平行線で紛糾したまま決裂して終了し、10月5日の第三回目の交渉の際、本家を憂慮した分家の佐土原島津家が入り、幕府側の意を受けて薩摩藩を説得、薩摩藩側ではイギリスからの軍艦購入を条件として扶助料を出す事で交渉が決着したのです。
この後、島津家は2万5千ポンドに相当する6万300両を幕府から借り入れ、それをイギリス側に支払いましたが、この借り入れた資金を幕府側に返還する事もなく、また講和条件の一つとして生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰をしませんでした。
この薩英戦争の講和交渉を通じて、その後イギリスは薩摩藩を高く評価する様になり、以降、薩摩藩とイギリスは関係を深めて行く事になったのです。