自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

日蓮についての見解①

 

もう年末なんですよね、今年もあと残り僅かです。

この週末(12/6~7)はちょっと外出していまして、そこで友人(学会活動家)とも会って様々な話をしました。この友人とは四十年来の付き合いで、高等部の時から付き合っているという稀有な関係で、地域は異なりますが友人も青年部時代はある地域で分県幹部をしていました。

今はと言うと、壮年部では副支部長ですが無任所という事で、立ち位置的には私に近い立場に居たりします。

この友人と会話した中で、様々な事を語り合いましたが、そこの内容から今回は日蓮の事について少し書いてみたいと思います。

日蓮という存在

いま創価学会の中では「教学要綱」により、様々な議論が起きています。しかし私もこのブログで幾度か書いていますが、この教学要綱の内容について創価学会の組織内にはほとんど徹底されていないのです。

だから友人の中では日蓮は未だに「久遠元初自受用報身如来」であり「末法の御本仏」という理解でいました。

そこで「教学要綱」の話になったのですが、当然、友人はそんな本なんて読んでもいません。俄然、会話の中でこれまでの創価学会の教学(日寛師教学)と、最近の創価学会の教学(教学要綱)のぶつかり合いとなって行きます。

一つ言っておかなければならないのは、創価学会の教学要綱を私は全面的に支持なんてしていません。

ただ彼にも言ったのですが、創価学会の教義改正とは2014年11月に発表された事であり、私も当時の原田氏の談話や男子部教学室の見解を読んでいましたが、彼もそうだし、創価学会の現場の人達の大半が、この教義改正の事を未だに認識が出来ていないのです。

「俺から言わせれば、2014年11月に発表された内容なのに、それを今頃になって”正しい”とか”間違っている”なんて議論しているのがオカシクないか?」

私は彼にも言いましたが、そういう事なのです。

まあ2014年から最近に至るまで、創価学会は選挙にご執心だったのは判ります。でも宗教団体を名乗りながら教義に興味を持たずに選挙に現を言っていた時点で、実は宗教団体では無いという事なのです。

そこで日蓮はどういった事を考えた人物であったのか、という議論に移って行ったのですが、友人は「日蓮末法の時代に初めて正法を民衆に対して広め、結果として弾圧を受けた事で法華経を身読した人物では無かったのか」と言いました。

この見解、私は青年部時代の最後で県教学部長をしていた事があるので、当時からしたら全く間違えていない解釈でもあります。面接試験でこれが言えれば及第点だったでしょう。

しかしここで一つ、認識不足な事があります。それは「日蓮末法の時代に初めて」という事です。実は末法に入り人々の為に仏教を説いたという事では念仏宗の開祖である法然源空がパイオニアと言っても良いのです。

法然源空について

これは「日蓮と仏教関係」のカテゴリで後に記事をまとめますが、民衆を救おうと仏教を始めて人々に説いたのは日蓮から目の敵にされた法然なのです。

詳細は後のブログで書くとして、ここでが概略だけ説明します。

日本に仏教が百済から渡来した時、日本としては最先端の仏教の教えを朝廷を護るための法として導入しました。これは「国家鎮護の仏教」というやつですね。以前に少し立正安国論の中でも触れました。

国家を護るための仏教を取り扱うので、日本国内では仏教僧は官僧と呼ばれ、今で言えば国家公務員扱いだったのです。勝手に仏教を学び出家した僧は私得僧と呼ばれ、これは犯罪者に近い扱いをされていました。

また仏教とは国家を護る教えなので、この僧侶が人々に説法し、布教する事は固く禁じられていました。説法する相手は公家が皇族など一部であって、もし人々に布教した場合には犯罪者扱いとなってしまいます。

さて、法然房が産まれたのは1133年です。日蓮が生まれたのは1222年で承久の乱の翌年なので、その差は約89年あります。

法然美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米南町)に生まれました。9歳の時に土地争いで父親が夜討ちを掛けられ殺害されてしまい、この父の遺言によって法然は仇討ちを断念し出家、その後15歳でに比叡山延暦寺に登り修学に励みます。

叡山では主に天台教学を源光や叡空に学びますが、法然房はここに自分が学ぶべき御添えはないと感じた様です。幼少に目の前で父親が殺害された事もあってか、死という人生の最大の問題に対して当時の比叡山の教えでは解決できないと感じたのでしょう。

43歳の時、唐の善導大師の「観経疏」「散善義」を読み、阿弥陀仏の本願に目覚めたと言いますが、これは魔訶不可思議な経験をした事により、念仏に対する確信を深めた様です。

そこから法然房は専修念仏を人々の間に広めて行きました。要は念仏宗を開いた訳です。

この念仏は当時の人々の心をつかんだのか、まさに燎原の火の様に瞬く間に人々の中に拡散して行きました。恐らく平安末期にあった「末法思想」と、当時の社会の抱える様々な矛盾の中で、多くの人々は念仏の中に救いを見たのかもしれません。

その結果どうなったかですが、承元元年(1207)、専修念仏が他宗派から批判され「承元の法難」が起こり、法然は土佐へ流罪となりましたが、後に赦免されします。

この他宗派からの批判ですが、主に比叡山園城寺と言った、当時、朝廷と深く結びついていた既存宗派から迫害を受ける事になったのです。恐らく多くの人達が念仏に帰依した事に、これら既存仏教は危機感を募らせたのでしょう。ここは日蓮が鎌倉仏教界から迫害された事と全く同じ縮図です。

建暦2年(1212)1月25日、法然房は京都東山大谷(現在の知恩院付近)で入寂します。享年80でした。

この法然房の開いた念仏宗をきっかけとして、後の鎌倉仏教が日本国内で花開いていく事になる訳で、多くの人々の中に仏教は開かれていく事になりました。

日蓮法然への評価

日蓮立正安国論でこの法然房を「悪人」と断罪しています。

この理由は法華経を「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」と呼び、法華経は大変重要な教えであるが末法の時代の人々に合わないので、まずは念仏を唱えて西方極楽浄土に行った後、法華経を学べばよいという、これは中国の善導和尚の教えを日本で広めた事によるのです。

これにより日本国内の念仏宗以外の宗派である天台宗をはじめとした仏教宗派が衰退し、仏教と言えば念仏宗だと多くの人々は思い込むようになり、仏は阿弥陀如来しか居ないと思うまでになってしまいました。

日蓮は天台大師が説いた法華経こそ最高で最重要な経典と思っていましたので、この法然房の教えは当に法華経にある様に「無間地獄へ行く教え」でもあったのでしょう。

また日蓮立正安国論の中で、客人が「法然房が悪人であると言うのであれば、何故世の中の人々は法然を断罪しなかったのか?」という問いを設け、それに対して「比叡山園城寺から朝廷に言って勅許が出て法然は断罪された事」を挙げましたが、それは法然房の教えが急速に拡大し、既存仏教を脅かした事により起きた迫害であったのです。また日蓮立正安国論の中で法然房の迫害の理由について触れていますが、それは単に後付けの理屈と言っても良いでしょう。

皮肉な事ですが、日蓮自身も鎌倉時代に強烈な弘教を進め、幕府に対して諌暁を行った事で生涯に渡り迫害を受けたのですが、それは法然房の行動を当にトレースした結果、同じ縮図で迫害を受けているのも皮肉的な事を感じます。

末法の時代に仏教を人々の間に開き人々を救済したいと考えたのは、何も日蓮だけではありません。親鸞もそうだし道元も同じ思いであったと思います。そういう思いが無ければ人々は彼らの教えを受け入れなしなかったでしょう。そういう意味で考えてみると、「末法の時代に初めて正法を民衆に対して広め」という行動は、けして日蓮だけの専売特許の様な行動ではない事を、まずは理解しなければならないと私は思いますよ。

大事なのは法然源空は天台大師が迹門の教えという念仏宗関連の経典を元にして広め、日蓮は本門である法華経を広めたという事なのです。

では日蓮法華経を「南無妙法蓮華経」というお題目として広めましたが、そこにはどういった意義があるのか。日蓮を信仰するという謳歌学会であれば、そこに重点を置いて考え、信じる必要があるのでは無いでしょうか。

しかし今の創価学会では法華経やお題目について深堀もせず、「池田先生と御題目、そして功徳(御利益)ばかり」を語りますが、それだけであれば法然房を非難する事は出来ないのではありませんか?

ちょっとこの話題は続けて行きます。