
さて、日本と中国の間の緊張感は日々高まっていますね。
そんな中で国内では高市総理が発言を撤回すればいいとか、謝罪すれば丸く収まるという論調が多くあります。しかしこと問題は「国家間の外交」のレベルの話であって、隣近所の言い争いというレベルでは無くなっています。
この感覚が今の日本社会の中には、まったく欠如している感じが否めません。
「国家間の外交」というのは、そこに様々な思惑が絡んできます。もうそのレベルで言えば隣近所の言い争いという物では無いのです。そこには双方、経済的な思惑もあるでしょう、政治的な思惑もあるでしょう、場合によっては双方の内政に向けた政府の思惑があるかもしれません。
そんな「国家間の外交」の緊張が高まっている状況なので、その緊張状態を隣近所の言い争いのレベルで考えてみても意味が無い。その事を日本人は理解しなければならないと思うのです。
参考ですが、井沢元彦氏の以下の動画を見てみる事をお勧めします。
この動画で語られる「軍事」という仕組みをまずは理解しないと、「国家間の外交」があらぬ方向に暴走しても、国民はそれを止める事なんて出来ません。
戦争そのものを正しく理解しないで、どうやって戦争を「止める事」の為の外交が出来るのですか?
「国家間の外交」と「軍事」を考えた時、そこに憲法はどうしても大きく関係してきます。
この今の日本社会の中では、高市内閣は「憲法改正」を進めたいと考えている様です。
私も今の日本国憲法にはとても大きな問題があるので、改正できる箇所は改正すべきだと考えています。その一つが「戦争の放棄」と「戦力の放棄」を決めている条項である憲法九条は改正すべきですが、それには憲法前文にある国民の認識もひっくり返す必要があると考えているのです。
◆日本国憲法の問題個所
私は法学者でもありませんし、法律の理屈には浅い理解しかありません。しかし最近になって憲法の前文を読んでみると、これは違うのではないかと思う箇所がありました。
それは憲法前文にある以下の文言です。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する
崇高な理想を深く自覚するのであって、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
この箇所をサラッと読めば、とても崇高な理想を掲げ、日本国はその崇高な理想の世界で国家の「安全と生存を保持しよう」という国だと宣言していますので、これはとても誇らしい事にも感じるでしょう。
でも考えてみてください。
人類史は戦争の歴史と言われるほど、紀元前のシュメールの頃から争いを続け、そしてその中で今日まで今の文明を発展・維持して来ました。現在ある様々な技術も、もとはこの戦争から発生した技術であり、そこから戦争を「悲劇の母」とする言葉があるくらいです。
ここで考えなければならないのは、これら人類史の戦争とは、一体誰が起こしてきたのかという事です。
これはまぎれもなく「国家」が起こしてきました。
そもそも戦争という行為自体が、国家間の外交で解決できなくなった事から、では武力で解決しようと始める事なのですからね。
しかし日本国憲法の前文では「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と記しています。確かに世界中の国民の中で「戦争を起こしたい」「戦争が起きて欲しい」と考える人は、ほぼ皆無でしょう。如何なる政府要人にしても、如何なる経済界の人にしても、国家や企業を離れた一個人の心情として「戦争が起きて欲しい」と考える人はいません。
でもどうでしょうか。
そんな諸国民であっても、国家に所属し、その国家の法律や制度、そして政治の中にいる限り、諸国民個人の思惑とは別に、人類の歴史では常にその諸国民の所属する国家が戦争を起こして来たではありませんか。
つまるところ、日本国憲法では日本国という国家の「安全と生存」を、諸国家(諸外国)ではなく、そこに属する諸国民に依存して「保持しようと決意した」と言うのです。戦争は常に国家の意思で始まっているのに。
これは極めて危険だとは思いませんか?
しかしこういった考え方に何も疑問すら持たず、日本国憲法、就中、憲法九条を維持すれば、日本と言う国家は戦争にも巻き込まれる事も無く、この先も平和に生きていけるという今の日本人の考え方こそ、私はかなり危険であると感じているのです。
これでは諸外国に好き勝手にやられても、日本国は身動き取れなくなってしまうという物です。
そもそもの話ですが、この日本国憲法とはポツダム宣言を受諾した後、GHQ主導により成立した憲法でもあるので、本来は変えるべき事は変えて行かねばならないでしょう。
このあたりの歴史的な事は、また別の記事でまとめてみたいと考えています。
◆憲法改正に対する問題点
しかしこの憲法改正を行うにしても、そこには大きな問題があります。
一体改正の草案を誰が起草し、それを国民的な議論に持って行く事が出来るのか。そもそも今の日本国民は、この憲法改正の必要性を理解出来ているのか、そういう処にも問題があります。
私が居た頃の創価学会は完全に「護憲団体」でした。今の日本国憲法は何が何でも守り抜く、そこにこそ日本と世界の平和があると、当時の活動家は理解していました。
だから私が高校生の頃、後輩の高等部員が自衛隊に入る事について「彼は人殺しの組織に行く事を、君は何も理解していないのか!」と私は先輩の男子部幹部に激怒されました。
しかし近年、かの犯罪で居なくなった公明党の遠山清彦元議員は、日本会議に参加して「私が憲法改正の説明すれば、創価学会の婦人部は説き伏せられます」と言い、この日本会議の進める改憲行動を支持する旨、表明した事は当時話題になりました。
また2015年、日本国内では集団的自衛権を認める安保法制を国会に通す事で、国内では大きな議論になりましたが、その当時、創価学会の男子部有志はあろう事か、創価学会の内部で安保法制賛成の署名活動を展開。その署名簿を自民党本部に届けるという行動をとっていました。
当時、私はこの男子部の署名活動の中心者とネットでやりあいましたが、彼は「これは創価学会本部の指導を受けてやっている事だ。ガタガタ抜かすな!」と一方的に私に言って来たのです。
当時は慶応大学の憲法学者の小林節教授も問題点を創価学会に指摘し、平和博士のヨハン・ガルトゥング博士も池田名誉会長(当時)に警鐘の意見書を送りましたが、創価学会本部では無視を決め込んでいました。
この小林節教授にしても、ヨハン・ガルトゥング博士にしても、聖教新聞紙面に幾度か取り上げ、創価学会として両者の意見や行動を通して「世界平和」を語っていた事があるにも関わらずです。
私は何も創価学会のみを指摘したいのではありません。
この創価学会の憲法改正への言動や姿勢は、今の日本国民の憲法改正に対する姿勢を端的に顕していると感じたので、ここで取り上げさせて頂きました。
今の日本国憲法は改正が必要です。
でもその本来の主体者たる国民側は、その改正への必要性を感じておらず。そもそも今の憲法で何が優れていて、何が問題点なのかも議論する素地すら、今の日本社会では出来ていません。そんな中で、自民党を中心とした一部の勢力だけが推進している事自体に、私は物凄い危険性を感じているのです。
憲法を語る事は、それは国家を語る事であり、日本国という国がこの先この国際社会の中でどの様な位置を占め、どの様に立ち居振舞うべきなのか。まずは国民の中にそういった議論が起きてから先に、この憲法改正の動きがあるべきだと私は考えているのです。
ただし日本が軍事的な意識の変化を起こし、自主独立の事を考え始めた時に、いまの宗主国ではないですが、アメリカがどの様に反応するのか。実はそこにも大きな懸念はあるんですけどね。