自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

久遠実成の釈尊の指し示す事

さて、創価学会の役職の事を書いていますが、過去の自分の記憶の隅を改めて掘り返して考えてみると、やはり本部長以上から創価学会の役職で感じる事は「信仰者」ではなく「組織の運営者」としての側面が強くなる事を、改めて感じています。

そもそも「御本尊を受持する」とか「お題目を唱える」、そしてそこで感じた事を元に「折伏する」という事を私は創価学会で教わってきました。しかしそれは飽くまでも「信仰体験を得る(確信を得る)」という事に重きを置き、実は創価学会の中、いやこれは日蓮正宗にしてもですが、そもそも日蓮が求めた事や、仏教とは何を教えたものなのかという事に肉薄する事はありません。

「蛍光灯は仕組みを理解しなくてもスイッチ入れれば明るくなる」
「リンゴは食べてみなければわからない」
「信じる事が大事なんだ」

こんな事を良く言いますが、ではリンゴを何故食べなければならないのか。信じる事が大事と言うが、その信じるとは「何」を信じる事なのか、また蛍光灯も明るくなる理屈を学ぶ事は大事な事ですが、実はその核心的な事を創価学会日蓮正宗では教えていないと思うのです。

結果としてどうなるか、と言えば、当にいま「教学要綱」で創価学会の中でも一部が揉めているのでしょう。でも大半の会員はそんな「教学要綱」になんて本当は興味すら持たない現状もある訳です。

今の創価学会の地区やブロックで活動に励んでいる活動家と言われる人たちも、私の周囲にはいますが、その人たちが「教学要綱」なんて話題を出してくる人は全く見た事がありません。主に議論が見えるのはX(旧ツィッター)の中くらいではないでしょうか。

私の知人の中には教学要綱を購入して読んでみたという人もいましたが、これ、2800円ほどするんですよね。

創価学会もセコイ商売するもので、これが大事であれば組織内の小冊子として無料で配布すれば良いではありませんか。大事な「教義の解説書」なんですから。

それをも値段を付けて会員に販売して利益を得ようとする事も、どうなんでしょうね。

でもこれを読んでいる人でさえ、そもそも法華経の読み方を理解していないので、何か空理空論でずれた議論の終始していると私は感じました。

要は「教学要綱」で言いたいのは、堅樹院日寛教学の否定であり、内容としては天台大師が説いた大乗仏教への回帰と言っても良いでしょう。だから私はこの本を、わざわざ2800円も出して購入する価値もないと思うので、購入もしていませんし、改めて読もうと思いません。

ただ言える事は、この「教学要綱」で言う事は日寛師教学の否定なのですが、それは詰まるところ戦後八十年に渡る創価学会の信仰の否定でもあるのです。その意味では創価学会にとっては大きな転換点を示すモノでもありますが、その創価学会がこの「教学要綱」を全面的に取り扱わないのは、そこへ踏ん切りをつけられないのでしょう。いろんな意味で。

という事で、前置きは少し長くなりましたが、そもそも論として法華経の事を、今回は書いてみます。

前の記事でも以下の事を書いていますが、これをもう少し嚙み砕いて書いてみる事に挑戦してみます。

tango-saito.hateblo.jp

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法華経の二箇の大事

大前提として、私は「法華経非仏説論」の立ち位置を取っています。これはつまり法華経を釈迦は説いていないという説です。この法華経の成立には諸説ありますが、大乗仏教の成立ととても深い関係があると思います。

大乗仏教の成立とは、ざっくり言えば西暦500年頃に、インド周辺の仏教教団は出家者による形骸化や権威化が進んでいたのでしょう。要は「悟りを得る」のは出家信者であり、在家信者は無理だという事を言われていた様です。

そんな中で在家信徒を中心に釈迦への原点回帰があったのではないでしょうか。

釈迦に直接会って話を聞きたい、教えを請いたい。
そこから瞑想を行う中で釈迦に会ったという人が出て、そこで聞いた事は初め散文的なものでしたが、それが後にまとめられ、経典として成立したものが法華経であったと言われています。

創価学会でいう五時八教とか、教相判釈の基礎は、その大乗仏教が中国に伝来した時に、天台大師智顗によって体系化されたもので、仏教本来には無いものです。そもそも釈迦の説法とは悩める人を目の前にした「対機説法(目の前の人を救うための言葉)」であり、それを後の第一回経典結集で弟子達が普遍化した教えに体系化しました。だから初期の仏教には、例えな五時八教という明確な時系列は無かったと思います。

実際、仏教史をひも解けば釈迦が法華経を説いたとされる年代、舎利弗や目健蓮と言った弟子たちは既にこの世から去って久しい年月であり、法華経の説法の座に連なる事なんて普通に考えてもあり得ません。

しかしだからと言って、釈迦が説いていないからそれは偽物であり扱うに当たらないという事を私は言いたいのではありません。そもそも大乗仏教とは、釈迦が説いていない事も、釈迦の言葉をきっかけにして、後世の人師や論師と呼ばれる多くの修行者が、理論を付けたし構築した哲学体系ですからね。

 

日蓮はその法華経大乗仏教の中心であり、最高の経典だとしていましたが、日蓮自身は開目抄で何故法華経が優れているかと言えば、これは「二乗作仏」という事、そして「久遠実成」が説かれている事によると述べています。

「二乗作仏」とは声聞や縁覚という人たち、これは仏教学徒と言っても良いでしょうが、仏教の理屈をもてあそび、他者を利益する事の無い姿勢が二乗には強くあるとして法華経以前の経典では「お前らは成仏しないし、仏になる可能性も無い!」と言い続けられていた事への否定となります。

ただこの「二乗作仏」の対語である「二乗不成仏」という言葉は、大乗仏教成立時の出家者に対して宛てた言葉でもある様に私は感じています。

法華経の譬喩品第三では、「智慧第一」と呼ばれた舎利弗尊者が初めに「成仏の記別」を与えられた事、そしてそれ以降順次、釈尊の弟子達の声聞・縁覚の人達へ「成仏の記別」が与えられた事からこの「二乗作仏」が表現されています。

何故この「二乗作仏」が大事かと言えば、声聞や縁覚という人たちが成仏出来ないとしたら、万人が成仏する事は出来なくなりますので、そこをまずはこの「二乗作仏」で示しているのでしょう。

日蓮法華経の肝要として大事だと言った「一念三千」には十界互具という理論があります。これは十界の各々に十界が具わるという事なので、そこに二乗が欠けてしまっては一念三千は成り立ちません。しかし法華経の迹門で二乗作仏が説かれた事で、この一念三千の体系が成立する事になりました。

しかし法華経の迹門において一念三千が示されたからと言って、では「仏の実の姿」はどんな姿であるかと言えば、それはあくまでもインド応誕の釈迦の姿だと言う事になっています。要は長き時間の間、諸々の仏に仕え、そこで教えを受けて修行を重ねた結果として得られる境涯を仏と皆が捉えていました。

実際に「二乗作仏」と言っても、それはあくまでも遠き未来における成仏の約束であり、それは成仏の可能性を示したもので、仏の実体とは説かれていないのです。

では仏の実の姿はどの様なものなのか。

そこを明確に示したのが「久遠実成」という教理であり、日蓮もそれ以前の仏の事を「迹門の四教の因果」と呼び、この久遠実成で顕された仏の姿を「本門の四教の因果」という言葉で述べています。

ではそれはどんな姿であったのか。

 

それは五百塵点劫という思惟も出来ない遠い過去に於いて釈迦は悟りを開いていたという姿でした。そして悟りを開いた釈尊は、そこから現在に至るまで様々な仏の姿としてこの世界に出現し、人々を化導してきたと言うのです。そしてそこで示してきた姿が「我本菩薩の道を行じて」と説き、境涯は仏であったとしても、人々に対しては救済する菩薩の姿を示してきた事を明かしました。

そしてその久遠実成の釈尊は燃燈仏として出現した事も明かしています。これは最近の創価学会の勤行では省略した「長行」の中にありましたよね。

燃燈仏とは釈迦が前世に仕えた仏だと言われていて、この師匠である燃燈仏から「お前は次の生で仏となり、その名前は釈迦と言う」と記別を受けたと言われています。

ここは過去のブログでも幾度か説明しましたが、とても混乱する処なのです。

久遠実成を説いたのは、法華経の説法をしているインド応誕の釈迦です。

そしてその説法しているインド応誕の釈迦は、既に思惟の及ばない過去世に於いて実は悟りを開いていたと語りますが、その遠い過去に悟りを開いた釈迦は、燃燈仏として過去に出現した事もあると言うのです。

つまり燃燈仏の時代では、仏の燃燈仏も、そこの弟子である未来のインド応誕の釈迦も、共に同じ「久遠実成の釈尊」の姿であると説いています。私はここが凄い重要な事を示していると感じました。一言で言えば、久遠実成の仏と、法華経以前の仏の姿は全く異なるという事を示しているのです。

ちょっとこの話は先に続けます。