
前の記事では、インド応誕の釈迦の前世の師匠である仏の燃燈仏も、久遠実成の釈尊がこの世界に出現した姿であると共に、インド応誕の釈迦も久遠実成の釈尊の姿であると法華経の如来寿量品に説かれている事を紹介しました。
でも考えてみれば、師匠と自分が「同じ存在が出現した姿」と捉える事が出来るでしょうか。
例えば仏教には「本生譚(ジャータカ伝説)」というのがあります。
こえは釈迦がインドに生まれる前に、人や動物として生を受けていた時々の物語であり、この伝説の中には有名な雪山童子の話や薩埵王子の話が説かれています。この本生譚から大乗仏教は派生したとも言われていますが、要は在家であっても、菩薩行を行う事で悟りをえられるという考え方の切っ掛けになったそうです。
「久遠実成の釈尊」を明かし、そこで燃燈仏や仏典に出て来る仏は全てこの久遠実成の釈尊の出現した姿であると共に、インド応誕の釈迦もその姿であれば、この本生譚で示された釈迦の過去世の姿も全てこの久遠実成の釈尊の姿だと明かした事になるのです。
別の表現を借りると、この世界の全て有情(生きとし生けるもの全て)は久遠実成の釈尊が、この世界に出現している姿という事になのです。
創価学会ではこれを「万人に仏性が内在する」と捉え、だから生命とは尊極な存在なんだという言葉を言っていますが、私からすればこの捉え方では思考停止しているとしか思えません。
大乗仏教で説きたかった事は、そんな事では無いでしょう。
話を進めます。
ここまでの理屈を「物語」として捉えるだけなら、そこで終わっても良いでしょう。しかし仏教とは多くの人達に開かれた教えという事であれば、私達一人ひとりにも即して捉えられなければ意味がありません。例えば創価学会が「仏性を具えた万人は尊極な存在だ」と言ったとして、では私達の生き方を理解するのに、何か深みを覚える事が出来るでしょうか。
私は出来ませんでした。「だから何、お互いに尊重しあう事なのか」とでしか理解できません。
生き方を理解するには、自分自身の事を理解する必要があります。そしてこの久遠実成の釈尊という存在は、そこに大きな視点を与えてくれると私は思うのです。
それはどんな視点かと言えば、「自分自身はどんな存在なのか」という事です。
◆「自我」について
ヨーロッパの哲学者であるルネ・デカルトという哲学者は、この世界のあらゆるものに対して疑いの眼を向け否定しましたが、その中でも否定できない存在がある事を知りました。それは「我」という存在です。
「我思う、故に我あり」
これはとても有名な言葉でした。
日常生活の中で、私達は特に意識をせずとも他者と自分は常に「分離」している存在として捉えていて、目の前の人も自分と同じ存在だと思う事はありません。これを「自我」と呼んでいます。デカルトが「我」と呼んだのは、この事なのでしょう。
少し穿った見方をすれば、例えば世の中で事件や事故が起きた時、皆が「私とは関係ない出来事」と思い、借金で苦しむ人を見ても「自分の借金ではないし、大変だな」と感じる程度です。また戦争になれば兵士は敵国兵士を殺害するのも「自分を守る為」と言っても良いでしょう。また今の社会は個人の権利を「人権」として定義し、その権利を擁護する社会でもあり、創価学会でいう「相対的幸福」というのも他者と比較して自身が優れている事から幸福感を感じる事と言っています。
つまり「自分」と「他人」は相交える事はなく、徹底して分離した存在だという前提に立って、今の人類社会は出来上がっていると言っても過言ではありません。
しかし仏教は異なります。
仏教は自分と他人、またそれを取り巻く環境を「縁起(縁により成り立っている)」と教えていて、けして自分と他人を分離した存在とは捉えていないのです。
この「自我」を捉える理論として、天台大師智顗は「九識論」としてまとめました。

この九識論とは、創価学会の中では青年三級試験などで学ぶ内容ですが、ここでは心の根源として阿摩羅識と述べています。日蓮も天台大師智顗の言葉を引用して「九識心王真如の都」と呼んだのは、この心の本質の事を指しています。
そしてその心の働きの表層(私達の世界に意識できる側)にあるのを阿頼耶識と呼んでいます。
この阿頼耶識とは過去から未来に向けて、個人が行って来たものが業という種子の様に蓄積されている場所とも言いますが、砕けた形で表現すれば「記憶の集積」と呼んでも良いでしょう。近い例で言えば自分が子供の頃の記憶も全てこの阿頼耶識に蓄積されているのですが、仏教では何もこの心とは今世(現当二世という言葉もありますが)に限られたものではありません。近年良く言う「前世の記憶」というのも、実はこの阿頼耶識に刻み込まれた記憶と言われています。
更にその表層にある心の働きは末那識と呼んでいますが、大乗仏教の中ではこの末那識こそが「自我」を感じている心だと言われています。
自分を独立した存在だと認識し、他者と自分を区別する心の働き。デカルトが「我」と感じたのも、大乗仏教から見た時、この末那識による働きと言えるでしょう。
大乗仏教の瑜伽行唯識学派によれば、この末那識とは「末那識は常に第八識を縁じて、自我という錯覚を生じる」とありますが、ここで「自我(自分)」と認識しているのは、実は「自分」とは阿頼耶識の中にある記憶により起きている錯覚であると言うのです。
原始仏教や小乗教などではよく「無我の境地」と呼ぶではありませんか。仏教とは「我(自我:自分)」というのは、実は確固として存在するものでは無いとして、この自分への執着(我執:がしゅう)こそが全ての苦悩の根源だという説もあったりするのです。
続きは次回で。