自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

人生の中で理解すべき事

2026年、あけましておめでとうございます。

今年も私は健康に留意しつつ、家族を養う為にも仕事に頑張ろうと思っています。

何しろ私自身、定年が見えてきた年齢になってきたので、一応今の会社では定年まであと数年ありますが、派遣社員なので今の職場でまだまだ仕事を握って行かねばなりません。

その為にも日々挑戦を忘れずに、仕事をしていく必要があるのです。

さて、昨年末からの続きの記事で、今回も仏界に纏わる事について書いていきたいと思います。

 

仏教全般では「成仏」する事を目的としています。創価学会では「宿命転換」と言う言葉が同義として語られていますが、要は自分達が日々修行するのも「仏に成る」事を目指していると言っても良いでしょう。

しかし法華経如来寿量品で説かれた久遠実成とは、その概念を覆し、私達の心の本質が既に「仏」である事が明かされました。

これにより「成仏」というのは、目指すべき境涯という事ではなくなり、この如来寿量品以降は仏とは自覚すべき境涯と言う事になったのです。

「私の心の本質は仏なんだ」

仏教では人生の中の様々な苦悩とは、過去からの業であり、また私達が持つ煩悩であると言われていましたが、自分達の心の本質が仏と言う境涯が変わった事で、この苦悩についての捉え方も変わります。

久遠実成が明かされた事で、私達の心の本質が仏という事が明かされました。

仏の境涯とは本来であれば煩悩や業は断ち切った境涯という事になりますが、にも関わらず私達が日常の中で苦悩を感じているという事は、その原因も単なる煩悩や宿業という話ではなく、その煩悩や宿業という事も、実は私達は心の本質でそれを理解して持ち合わせていると言う事にもなるのではないでしょうか。

そこから考えると、この業という事については「願兼於業」という捉え方に変えざるを得なくなってくると思います。

何故なら心の本質が仏の境涯という事なのですから。要は自分自身で願って、この業を持ち合わせこの人生に生まれてきたという考え方にならざるを得ないのではないでしょう。

ここまで前回の記事で書いてきた事です。

そしてこれを裏付ける事として、一つの論拠にカナダの臨床精神科医であるJ.L.ホイットン博士が多くの臨床研究の結果をまとめた書籍である「輪廻転生・驚くべき現代の神話」の中で書かれている事があります。

この書籍の内容については、以前に以下の記事でも少し紹介しています。

tango-saito.hateblo.jp

この書の中でホイットン博士は多くの退行催眠の中の臨床例から「カルマ(業)」とは、自身の人格を向上させる為に、生と生の間(仏教では中有と呼び、チベット仏教ではバルトと呼ぶ状態)で、自分自身が選択し、その環境を自ら選択してこの世界に生まれてきていると結論をまとめていました。

とは言え、この事はけして他者から言われて認識出来る事ではありません。むしろ他者から言われたとしても、本人が自分の心の構造を自身の体感的な事として理解しなければ、むしろ反発と誤解を与えてしまいます。

自分自身の心の本本質が仏である。

この法華経如来寿量品の思想から「本覚思想」という事が以前から言われていて、そこでは人の心の本質が仏であれば、もう修行をする意味なんて無いではないかという議論もありました。

しかしながらこの心の構造を体感的に理解するための取り組みが私達には必要となり、その為にも修養に取り組む必要が出てくるのです。

私が思うに天台大師智顗の説いた教えの中では「内観行」というのが、とても重要視されていて、当時の天台宗の出家僧たちが盛んに座禅による瞑想行により組んだ事も、実はこの「心の本質が仏である」という事を、体感的に習得するための修行ではなかったかと思うのです。

そして日蓮もこの事は恐らく熟知をしていた事で、彼は己が幕府に対する「国家諌暁」という行いを通して、その為に生涯を権力からの迫害という事に身を投じましたが、その経験の中からこの「自分自身の心の本質が仏である」という事に肉薄出来たのではないでしょうか。

日蓮自身が御書の中で「法華経を身読した」という事も、その事について語ったのではないかと私は思うのです。

 

では私達も日蓮同様に権力側との闘争に入らない限り、この事を理解する事は出来ないかと言うと、けしてその様な事では無いと私は思うのです。

私達に即した場合、これは日常生活の中で生きる事でも充分理解する事が出来ると思います。

ではその為に一番何が大事かと言えば、それは「自分自身を信じる」という事になるのではないかと私は考えています。

何故、自分自身を信じるかと言えば、様々な苦難の中にあっても、それを目的を持って自分自身が持ち合わせ今の時代に生まれて来たという事であれば、その苦難や苦闘はけして乗り越えられない事でもなく、解決出来ないという事でも無いはずです。そういう意味からも、常に自分自身を信じる事が一番大事だと思っています。

 

私自身、創価学会の活動を離れて十数年経過していますが、その中で様々な悩みや苦しみもありました。しかし今、改めてこの自分の十数年間の人生の状況を振り返って見ると、実は塗炭の様な苦しみの中にあっても、自分自身を信じて諦めないで生きる中で、実はその苦難や苦闘というのが後に、その一つひとつに意味があったと理解出来る事が幾つもありました。

私はそれら経験の上から、この様な結論を感じ取っているのです。

「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経に帰依する事」という意味です。そして「妙法蓮華経」に説かれているのは「自身の心の本質が仏である事」です。であればそれを信じて生きて行く事が即ち「南無妙法蓮華経」の生き方にも通じるのではないでしょうか。

けしてこの「南無妙法蓮華経」というお題目を「呪文」の様に唱える必要はありません。ただ自分自身にお題目の意義を刷り込む思いで生活の中の折々に、唱えるだけでも充分だと思いますし、それは必ず唱えなければならないという事でもないでしょう。

 

少し取り留めない話を書いてしまいましたが、本年も折にふれてこの様な事を書き連ねていきたいと思いますので、よろしくお願いします。