
最近まで何かと選挙関連の記事を多く書いてしまいましたが、ここで久しぶりに日蓮に関する事について書いていきます。
弘安5年(1282年)10月13日に日蓮は武蔵国の池上邸(現在の東京都大田区)で入寂しましたが、それを遡る事、10月8日に日蓮は門弟の中から後継者として六老僧を定めたと言われています。

(富士門徒の沿革と教義 松本佐一郎氏著 から抜粋)
この事は日興師の記録した「宗祖御遷化記録」に書かれており、この部分の前には「十月八日本弟子六人被定置」とあり、後には「右六人者本弟子也 仍為向後所定如件」とあります。
この「宗祖御遷化記録」とは、日興師が日蓮の入寂に際してその最期を記録した文献で、この内容は日蓮が身延を出発してから池上邸に到着するまでの経緯、池上邸での療養生活、六老僧の任命、形見分け、日像への京都開教の託名など最期の教示、入寂当日の状況、遺骨を身延へ運ぶ事への遺言などが書かれています。
まずこの「宗祖御遷化記録」の中で、六老僧を「一弟子六人事」と書かれていますが、この古文の書き方については、単に人物名の羅列という意味合いでは無いようです
これについては立正大学日蓮教学研究編の「日蓮教団全史」によれは、「一つ、弟子六人事」という事ではなく「一弟子、六人事」であり、これは各人が第一級の弟子であり教団内の長老であるという意味合いがあると言うのです。この事については西山本門寺所蔵の日蓮直筆の「浄土九品之事」で、法然の弟子を記す際に同様の記載があり、そこでは第一弟子を一切初人の崇敬を受けているという意味あいで記されている事から、日興師がそれを踏襲した形式で記している事が読み取れるというのです。
これは今でいえば各々が日蓮の「本弟子」という意味なのでしょう。
この日蓮が亡くなった時、日昭師は62歳、日朗師は38歳、日興師は37歳、日向師は30歳、日持師は33歳、日頂師は31歳でした。そして彼ら六人については「不次第」として序列は無く同列だと記されています。
日蓮正宗や創価学会では、この「六老僧」については「五一相対(日興師と他五老僧)」で捉えていますので、実はこの六老僧がどういった人物であったのか、あまり理解されていません。
ここで、まず六老僧の人物概観についてまとめてみます。
◆日昭師

日昭師は承久二年(1221年)~元亨三年(1323年)に生きた人です。
日昭師は天台宗の僧侶であったという事と、師匠の日蓮よりも年齢が上であったという事は判っていますが、実は出自の事については不明な事も多い人物なのです。
日蓮の弟子となった時期も建長五年の冬という「本化高祖年譜」の説と、建長六年正月という「本化別当仏祖統記」の二節が存在しますが、日蓮の立教開宗の時期を考慮すると、建長五年の説が合致すると言われています。
日蓮の弟子となったのは、日昭師が建長五年に当時、松葉が谷を訪ね、そこで日蓮より「日昭」という名前を頂いたという事が「本化高祖年譜」「本化別当仏祖統記」ともに共通して記されている事から、年代のずれは多少ありますが、これはほぼ間違いない事と思われます。
日昭師の出自は、伝記本によって両親や出生年が異なっています。「日蓮宗宗学全集第19巻」にある「玉沢手鏡」によると、日昭師は下総猿島郡印東領(現在の茨城県坂東市近辺)と言われており、父親は印東次郎左衛門尉佑照、母親は印東大和守佑時の娘と言われていますが、これが事実とは確定していません。
一般的に日昭師は日蓮とは比叡山で同学でありながら、年齢は一歳年長と言われています。
日蓮も日昭師の事は辨殿、もしくは弁阿闍梨、日昭上人と呼んでいた事から、日蓮の門弟の中でも初期から重鎮として扱われていた様です。また「権律師日昭」とも呼ばれていた事から比叡山の僧位僧官も得ていた事が判ります。それにより日昭上人は自身を「天台沙門(天台宗僧)」を自称していたとしても、それは間違いではありません。
この日昭上人について、日蓮の門弟となって以降の事は知られていますが、実はそれ以前から既に日蓮と交流があったという説もあります。
「本化別当仏祖統記」によれば、日昭師が出家したのは地元(下総国)の寺で出家し、直ぐに比叡山延暦寺の修学の為に上ったと言います。そこで尊海師を師僧として修学し、集英を認められた事から藤原氏(摂関家)の猶子となり建長五年の春に十八登壇受戒しました。そこで師僧の尊海師からは日昭師は慈覚・智証大師の理同智勝の教えを破折する思想は日蓮と同じ徒党であるかを問われ、この時に初めて日昭師は日蓮の存在を知ったとあります。
この記録通りであれば、比叡山延暦寺で当時の比叡山教学に対する批判精神が日蓮と同じである事から、そこで既に知り合っていたという事になります。
その日蓮が自身を「安房の国長狭の郡東条の郷片海の海人が子なり」(本尊問答抄)と述懐している様に、幕府要人等には人脈はそれほど無い中で、鎌倉入りをして人脈拡大をするために、摂関家とも関係のあった日昭師が門弟となった事は、とても重要な位置づけであったのかもしれません。それは日蓮の立教開宗にともない下総方面の人脈(例えば富木常忍など)を日昭師が既に持っていた事。また鎌倉においても最明寺入道時頼の執事であった宿屋入道など、幕府への人脈の背景には日昭上人の存在があった事で繋がる事が出来たと言うも充分に考えられます。
もしそうであれば、日昭師は日蓮の門弟でありましたが、実は初期教団当時から「共同設立者」という位置づけであった事も考えられるのです。
◆日朗師

日朗師は寛元三年(1245年)~元応二年(1320年)に生きた人です。
日朗師の出自は下総国海上郡千郷(現在の千葉県銚子市近辺)と言われています。日昭師とは妹の夫で義弟の平賀二郎有国を父親として、日昭師の妹を母として生まれたと言われています。
幼名は吉祥丸と呼ばれ「本化別当仏祖統記」によれば、建長六年十月に父親の平賀氏が松葉が谷の草案に日蓮を訪ね、この時に日蓮の人徳に感銘し、当時十歳の吉祥丸を入門させたとあります。ただしこれも一つの説であり、日昭師も出自に確かな記録がないので、どこまで事実か判りませんが、記録としてあるのは、この様な内容なので、私はこの説をとっています。
吉祥丸は十六歳となった文応元年に得度して筑後房となのり、字(あざ)を大国としました。先に出家していた日昭師は比叡山で権律師として正式に受戒を受けていましたが、この時の日朗師は日蓮の下で私得僧という立場でした。
日蓮の下で日朗師は常に脇にいた事から「師孝第一」「常随給仕:の弟子と飛ばれていたそうです。文永八年(1271年)に日蓮が佐渡流罪の際には、土牢に押込みとなり、その後文永十一年(1274年)には日蓮の流罪先の佐渡を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る役目を果たしていました。
日興師とは一つ上の年齢にあたるので、いわゆる兄弟子という立場にいましたが、日興師は主に駿河方面を活動拠点としていたのに対し、日朗師は叔父の日昭師と共に鎌倉を拠点として活動していたと言われています。
日蓮没後は六老僧の一人となり、墓輪番にも入っていましたが、日興師とは中違えをしていた様です。しかし折に触れて身延を訪問し、晩年には日興師の居る重須本門寺に出向いたとも言わrています。また池上宗仲氏と共に池上本門寺を建立、大国阿闍梨と称され弟子の育成にも尽力しました。この事から日朗の門弟は日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖とも呼ばれています。
元応二年一月二十一日に没しましたが、その身は松葉が谷で荼毘に付されました。この時、享年七十八歳。その後、様々な功績もあって後に後光源天皇より「日朗菩薩」という諡号を与えられています。