自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

六老僧について②

六老僧について続けます。

私は創価学会の活動を止めた時、二つ思いがありました。

一つ目は「池田大作という人物を知りたい」という事、そして二つ目は「日蓮という人物の志を知りたい」という事でした。

十九歳の時、先輩から日蓮仏法という事を耳にしてから四半世紀。私は創価学会の中にこの日蓮仏法が息づいていると信じて学会活動に身を挺して来ました。しかしながら今から思えば、そんな日蓮仏法何て言うものは創価学会の中には無く、私が信じて来た事というのは、実に空虚な事であった事を理解しました。

それは今回の総選挙(2026年2月実施)で、公明党立憲民主党と野合しましたが、そこで創価学会の活動家の言動を見る事で、とても明確になりました。

政治活動上の票集めが、日蓮の主張した立正安国論とは何もつながり無い事なのに、多くの創価学会の活動家はそこに日蓮の言葉を見て、そこに法華経の信仰を感じているなんて、とても異常な事なのです。

そんな事で十年近くの間、私なりに様々な文献に触れる中で考え感じた事を、このブログでは稚拙ではありますが、まとめているのです。

という事で、今回はその中で六老僧についてまとめていますが、今回もその続きとしての記事を書き進めていきます。

◆日興師

日興師は寛元四年(1246年)~元弘三年(1333年)を生きた人です。

日興師の出自は甲斐国大井庄鰍澤(現在の山梨県富士川鰍澤近辺)で、父親は大井橘六、母は富士上方河合の油井家の女性の間に生まれました。

幼くして父親を亡くしたようで、直ぐに河合の地へ移り、蒲原の四十九院という天台宗の寺院に入って修行をしていた様です。

正嘉二年(1258年)、日蓮が「立正安国論」の一書をまとめるために、ほど近い岩本実相寺を訪れましたが、日興師はここで日蓮に教えを請い、弟子のひとりに加えられ伯耆坊という房号と日興という名を頂いたと言います。この時、日興師は十二歳でした。

この時の日興師は恐らく当時、鎌倉で知名度の上がっていた日蓮の噂を耳にして興味を惹かれ、実相寺を訪問したのかもしれません。当時、日蓮は三十六歳、日興師からみたら活気みなぎる大人物の姿をみて、その場で入門を決意したのかもしれません。

ただ当時十二歳であった日興師は、直ぐに日蓮の下にはせ参じる事は難しかったようです。当時の日興師は四十九院の若輩で利発な修行僧であり、四十九院としてもそんな日興師を直ぐに手放す事はしなかったようです。

弘長元年(1261年)五月十二日、日蓮は伊豆に流罪となりましたが、この時に日興師は伊豆に同行して常随給仕した事が「日興上人詳伝」に書かれていますが、この事から日蓮に出会ってから三年以内に、日興師は日蓮の下に駆け付けた事が想定されます。

また文永八年(1271年)十月十日、日蓮相模国依知の本間邸を出発して佐渡に向かった際にも、日興師は同行して常随給仕をしました。

その後、文永十一年(1274年)に佐渡の一の谷を出発し日蓮が幕府に三度目の諌暁を行った後、身延山に入ると日興師は甲斐、駿河方面に布教を薦めました。そしてこの頃に少年であった後の日目師とも出会いました。

建治元年(1275年)一月下旬、南条家に到り故兵衛七郎行増の墓日蓮の代わりに代参し、富士下方を弘教を薦め、この時の日興の教化により後の熱原の法難で中心者となる下野房日秀・越後房日弁・少輔房日禅。その他、三河房頼円、及び在家若干を折伏して弟子としました。

弘安二年(1279年)十月十二日、日蓮は熱原の事を受けて、書を日興師のほか、日秀・日弁等に報じ滝泉寺申状草案を与えました。そして十月十五日、日興師などは鎌倉より日蓮に法難の状を急報しますが、それを受けて日蓮は十月十七日に書を日興師はじめ日秀・日弁等に送りました。

その後、弘安三年(1280年)二月、日興師は遠江の新池家にいましたが、弘安四年(1281年)、日興師は園城寺申状を持ち日蓮の代理として代奏します。この事は初度天奏とも言われています。
これは日蓮の法門について、日蓮門下の中で理解度が高かったという事を示す事だとも言われています。

弘安五年十月に日蓮は亡くなりますが、その際に日興師に法を付属をしたと言いわれていますが、この事については諸説ありますので、別項で述べる事としてここでは省略します。

その後、日向師や、身延の地頭・波木井実長との意見の相違から、翌年、正応元年(1288年)十二月十六日、日興師は身延山を離山する事となります (身延離山)。離山後は 越前房の私坊に逗留しました。

正応二年(1289年)八月五日、富士河合の由比入道の家に逗留しますが、しばらくして駿河国上野郷の南条時光の館(現在の下之坊)に逗留します。

正応三年(1290年)十月十二日、南条時光の寄進により大石寺が建立され、翌日の十月十三日に日興師は日目師を大石寺学頭とします。その頃から日目師が一門の統率をしたと言われており、また同年、弟子らにより宿坊が建立されました。

永仁八年(1298年)二月、足かけ十年年過ごした大石寺を離れ、日興師は重須談所(大石寺近郊、現在の北山本門寺)に移りました。その後、正慶二年(1333年)一月十三日、二十六箇条の『遺戒置文』をもって将来の指針を示し、二月七日、三十五年に渡って住んだ重須にて死去しました。享年は八十八歳でした。

◆日向師

日向師は建長五年(1253年)~正和三年(1314年)を生きた人です。

生まれは安房国男金(現在の千葉県鴨川)、もしくは上総国藻腹(現在の千葉県茂原)と言われています。

男金藤三郎実長の子で、日興師の祖父は小林実信の民部にちなんで民部阿闍梨と呼ばれました。また母親は光日尼、あるいは光日房と言われていますが、日向師の幼い頃から日蓮と親交あった近しい人の系譜であったようです。

十三歳で日蓮の下に入門し、出家得度してから常に日蓮の近くで給仕したと言われており、行学に励み特に弁舌に優れていた事から「論議第一」と呼ばれていました。

建長二年(1276年)、使者として日蓮の師僧の道善房の墓前に赴き、日蓮による追悼のための「報恩抄」を代読しています。

日蓮が亡くなった後、身延にいた日興師を訪ねて上がり、日興師はそれを喜びが学頭に付けましたが、その後、地頭の波木井実長が福士の塔を供養するなど、その謗法行為を容認したのは日向師と言われており、それにより日興師は身延離山する事になりました。

六老僧の中では「五一相対」と言い、日興師と他五老僧の確執が取り上げられていますが、六老僧の中ではこの日向師と他五老僧の確執が実際にはあったという話しもあります。

その後、日向師は身延山第二世となりますが、後進を弟子の日進に譲り、正和三年に藻原の地で亡くなります。享年六十六歳でした。

◆日頂師

日頂師は建長四年(1252年)~文保元年(1317年)を生きた人です。

父親は小林伊予守定時とも言われていて、駿河の重須に生まれ俗姓は南条氏でした。父親の伊予の名前により伊予阿闍梨と呼ばれています。

母親は離別後に富木常忍の後妻となった妙常尼と言われ、日蓮の御書には「富木尼」「富木殿女房」と呼ばれていた人です。

日頂師はその後、富木常忍の養子となり、幼い時に日蓮の下に入門しています。また日蓮佐渡流罪の時には随行していました。

日蓮聖が富木常忍に宛てた手紙には、日頂師は「学匠」となって行学二道に励んでいる「器量者」と書かれていますしたが、これには母親が心配されないようにとの配慮が窺えます。しかし、日頂師は日蓮の亡くなった後に富木常忍より勘当されます。理由に日蓮の3回忌に遅参したためとか、真間弘法寺別当、及川宗秀から排斥されたなどと言われますが、明白ではありません。

「本化別当仏祖冬季」には乾元元年(1302年)に下総の真間弘法寺を弟子の日揚に付して重須の日興師に帰依とあります。また重須に正林寺を創建(正林寺寺誌)し、徳治2年(1307年)6月24日、日興に代わり書を鎌倉の了性坊日乗に送り激励。文保元年3月8日(1317年4月19日)、重須で亡くなったと言われています。

◆日持師

日持師は建長二年(1250年)に生誕しましたが、没年は不明です。

駿河国静岡県庵原郡松野の領主松野六郎左衛門行易の第二子として生まれ、母は松野尼と言います。父親の行易が日蓮の信徒となる以前は、北条氏の援護者としてこの地域を守っていた関係上、日蓮の教義である法華経には、少々受入れ難い立場であったと言われます。日持師の姉は上野尼御前で、夫が南条兵衛七郎です。夫が死去されてからは「上野殿後家尼」と呼ばれます。

初め駿河国蒲原の天台宗寺院四十九院で日興師に師事して、天台教学を学んでいまさいたが、その後に日興とともに追放され、日蓮の下に入門しました。日蓮の没後は日興師と不和になり、正応元年(1288年)に日浄とともに願主となって武蔵国池上本門寺に祖師像を安置しましたた。

その後の消息は不明ですが、一説によると永仁3年(1295年)、布教を目指して異域にわたったという伝説があります。なお、樺太を経て大陸に渡ったというのは,大正時代以降に作られた話であるとされています。