自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

日蓮は日興師に付属したのか

仏教が日本に渡来した時、国家鎮護の教えとして日本に根付きました。

要は朝廷を中心とした日本の国家を護る教えとして定着したんですね。だからその仏教を執り行う僧侶は官僧(今でいう公務員)であり、彼らは国家からの許認可の元で僧侶という立場を得ていました。しかしその中でも国家の許可を得ずに出家する僧もいて、彼らは私得僧として差別をされていたのです。

国家を護る教えなので、当然人々に仏教が布教される事なく、日本で仏教は平安時代まで貴族の間でのみ定着をしていきました。しかし平安時代末期に法然源空という僧が念仏の教えを人々の間に布教をしたところ、これが瞬く間に人々の間に流布して行ったのです。

そして鎌倉時代になると、それぞれの宗派が人々の中に広められていきましたが、この時に広まった仏教各宗派を学校教育では「鎌倉仏教」と呼んでいたのです。

日蓮の教えもこの鎌倉仏教の一宗派で、始まりは日蓮一人から始まりました。

そして日蓮の亡くなった後、その弟子達が様々な宗派を作り、いま日本国内には様々な日蓮宗各派が存在しています。

私が若い頃に傾倒した創価学会も、もとは日蓮正宗というこの日蓮の宗派の一つから始まりましたが、悲しいかな今では日蓮正宗という仏教宗派ではなく、その教えをテコとして利用した政治宗教化してしまいました。

 

さて、日蓮正宗では日蓮の教えは一つあまたず弟子である日興師に「付属」されたと主張しています。そして歴代の貫首(彼らは御法主上人猊下と呼んでいますが)に日蓮の教えは間違いなく伝承され、それは現在の第68世日如上人に伝わっていると主張しています。

 

これは本当なのでしょうか?

もしこれが本当であれば、日蓮の教えを信じて学ぶ事は、すべからく日蓮正宗に依存しない限り学ぶ事も出来ないのですが、それでは日蓮の信じた仏教、そしてそもそも日本に伝播してきた大乗仏教とは、そんな辺鄙な教えだったという事になります。

 

ここでは日蓮が亡くなった後、この日蓮正宗の主張する「日興師への付属」という事について少し書いてみたいと思います。

日蓮の葬儀の列

まず以下は日興師の「御遷化記録」にある葬列の順列です。

ここでは前陣を日朗師が務め、後陣を日昭師が勤めています。そして前陣が葬儀の際の副導師を務め、後陣が大導師を務めるのが習わしとなっています。この葬列で日興師は左列の中ほどにいますが、この葬列から見ると第一の弟子は日昭師となり、次に日朗師という事になります。またこの葬列では日持師と日興師も極めて高い序列にある事はわかりますが、けして日蓮の葬儀という大事な場で、唯一付法の直弟子と読み取る事は出来ません。

またこの「御遷化記録」に六老僧を記している内容を見ても「不次第」とある様に、六老僧にはそもそも「上下関係」というのは存在しておらず、全員が同列となり後世の弘教を日蓮が六人に対して託していた事が判ります。

日蓮正宗では、日蓮が日興師ただ一名に対して法を付属し後世を託したと主張していますが、その託された日興師の記した「御遷化記録」からは、その様なそぶりは一切見えません。しかし日蓮正宗では日興師一人に日蓮は付属したと主張し、その根拠として「二箇相承書」を取り上げています。

◆二箇相承書について

こちらは日蓮大聖人御書全集に記録されている御書となっています。一つは身延の地で認められたという「身延相承書」、そしてもう一つは池上邸で認められたという「池上相承書」です。

身延相承書  [総付嘱書]
 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば
富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此
の状を守るべきなり。
= 弘安五年壬午九月 日    日蓮在御判
血脈の次第 日蓮日興

池上相承書  [別付嘱書]
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非
法の衆たるべきなり。
= 弘安五年壬午十月十三日  武州池上
日蓮在御判

この付属書ですが、この書により後世で様々な議論が巻き起こっています。近代で代表的な例としては、富士大石寺顕正会などは、身延相承書の「国主此の法を立てらるれば」という言葉の「国主」とは「天皇」の事であり、天皇の入信こそが戒壇建立の第一条件だと解釈し、そこを根拠として創価学会正本堂を寄進した事について「誑惑の戒壇である」と述べ、創価学会や時の宗門を攻撃してきました。

 

この相承書は大石寺相伝書という事で、過去は一般公表せずに宗門内の一部のみに秘匿されてきたものですが、堀日享師が「御書全集」の中に公開したものです。

まず見て思うのは、「身延相承書」の日付が「九月 日」と明確に記載をされていない事です。ただこれについては、実際に身延相承書の原本は既に無く、多くの写本のみが存在するという、いわばとても曖昧な文書でしかありません。

ちなみに京住本寺の日広写本では「九月十三日」とあり、その他百五十箇条の写本でも「九月十三日」と記載されています。それ以外には「十月十三日」という記載のある写本もありますが、これでは日蓮が没する寸前に「身延相承書」と「池上相承書」を同時に記載した事にもなり、そもそも「相承書」という位置づけのものを、何故二通も同じ日に日蓮が記載しなければならなかったのか、という疑問をも呼ぶことになります。

 

次に日蓮が体調を崩して身延山を下りて、日立へ湯治に向かうという事で旅立つのですが、この道中記録を以下に紹介します。

(引用元:信行会講義(2)http://wwg.dreams.ne.jp/jitsudaiji/singyokai/sub2.html )
弘安5年 61歳
  9月8日:病状悪化し、身延を下山。常陸の湯を目指す。
  道中と宿泊地 
    8日:下山、9日:大井庄、10日:曽根、11日:黒駒、12日:河口、
    13日:呉地、14日:竹の下、
    15日:関本、16日:平塚、17日:瀬谷
  9月18日:武蔵国池上家に到着。
  9月19日:波木井氏に到着を報告、「墓を身延に」と遺言。
  9月25日:「立正安国論」を講義。
  10月8日:6人の本弟子選定(六老僧) 日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持
  10月13日:辰の刻(午前8時)ご入滅、御年61歳
    最長老の日昭上人が鐘を打ち鳴らす(「臨滅度時の鐘」)
    庭前の桜が時ならず咲く(お会式桜)
  10月14日:葬送の儀

この道中記を見ると、13日は呉地近辺に在って、そこで身延相承書は書き記された事になりますが、一般的に考えてもこれだけ重要な書を、移動の道中で書き記す事は無く、また呉地で記載したのであれば、「呉地相承書」とでも銘打てば良いはずです。

これが相承書に関する疑念の一つです。

またもう一つ、「池上相承書」についても疑念があります。
池上相承書では「身延山久遠寺別当たるべきなり」とあり、さも日興上人が六老僧の中でも別格に扱っている様に書かれていますが、先にも述べた様に「御遷化記録」には、「不次第」と記されています。これも大きな矛盾です。

 

この事について、過去に日蓮正宗では以下の様に主張をしています。

●六弟子を定めて法臘(ほうろう=僧になってからの年数)の順に記録なされたが、それは自(おのずか)ら順位を示すものである。然るに大聖人の思召しは平等にあらせられた故に、わざわざ「不次第」と御書入れがあつたと拝するが妥当であらう。しかし、もう1歩進んで考へると、「不次第」と仰せられしは上を抑えて下を上げてをると解釈できる。さすれば、次第不順で相違を法臘(ほうろう)以外に御認めなされたからといふべきである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1268頁)

この文書は苦しいですが「しかし、もう1歩進んで考へると」と一般的な解釈を乗り越えた説明を敢えてしています。

要は日蓮正宗の主張で言えば、日蓮という人物は「裏と表がある人物」という事にもなってしまうのですが、果たしてそれで良いのでしょうか?

「表向きは皆平等、しかし裏では日興が別当なのだ」

つまり日蓮とは、その様な表裏のある人物であり、日興師もそんな表裏のある師匠の元で、法を譲り受けて二世と称したという事ですが、そんな事で良いのですか?

各種のエビデンス(証跡)を以て、日蓮正宗では正邪を争っていますが、問題なのはそのエビデンスに信頼性が既に無くなっているという事実です。それを抜きにして、この議論をやってもそこは所詮「水かけ論」を誘発するに過ぎません。

 

またこの二箇相承書ですが、何故原本を紛失したのか、それについて以下の様に述べられています。

- 1581年(天正9年)3月、聖滅300年、武田勝頼の臣重須を襲い二箇相承等を奪う(富士宗学要集9-17・20)
二箇相承書は武田勝頼軍によって奪われ、武田の兵乱によって失われたと伝承され、保田妙本寺の日我等が二箇相承紛失の顛末を著しているが、その30年後に徳川家康が拝したとの記録がある。

この史実が事実かどうか、今の時代では断定する事は出来ません。しかし言い訳として殊更「武田勝頼」とか「徳川家康」という歴史的な著名人を出しているという事に、私は胡散臭さを感じているのです。

 

さて、この様に日蓮正宗の主張する相伝書について書き連ねてきましたが、この真偽論争は実に長きにわたり論じて来られていますが、未だに決定的な決着は見いだせていません。これは「原本」を消失した時点で、相承書という議論は既に終わってしまっている事に他ならないからです。

私はこの事を知った時に思いましたが、日興師は相伝書が無くても自覚の上で「私こそが日蓮上人の後継者なのだ」とうう深い自覚があったと思います。日興師は前の記事にも書きましたが、教学に対して極めて厳格であり、その姿勢は他の老僧からも認められている文献もあったりするほどです。その教学への厳格さというのは、実は日興師の心の中にある「後継者としての自覚」からの姿であり、そこにこそ日蓮教団の後継としての相承の本体はあるのではないでしょうか。

 

創価学会を破門にしてから、年月も経ちましたが、日蓮正宗は未だに日蓮曼陀羅を書写するのは血脈相承という事が必須だと唱え、そこには「法魂」の様な魔訶不可思議なものが日蓮から相伝されているからだと言いますが、この日蓮が無くなってから葬儀に至るまでの情景、また二箇相承書をよく確認してみると、実はそんな事は限りもなくマヤカシに近いものであると感じるのです。

でもまあ、人は宗教に対しては「イワシの頭も信心」という様に、そこには理屈抜きに付き従うという習性を、実は心の中に深く持ってしまっているので、そこに気付く事も中々難しいのかもしれませんね。