
さて、前回の記事では日蓮の門弟の中で、後世を託された六老僧の事、そして日興師への付属という事について、少し思う処を書かせてもらいました。
日蓮が亡くなったのは弘安五年(1282年)なので、今から750年ほど前の事です。そして亡くなって以降、それぞれの弟子が結果として分派してしまいました。
果たして日蓮は弟子達が分派する事を望んでいたのか、そこはわかりませんが、普通に考えたら望んでいた事ではないでしょう。
しかし世界の宗教の何れを見ても、後世に分派する事は常にある事であって、日蓮の門弟に於いてもそこを逃れる事は出来なかったのです。
私は創価学会で活動を始めてから、日興師を直系の弟子であり、日蓮正宗や創価学会はその流れを受けた正統なる教団だと教わりました。そして日蓮正宗以外の日蓮宗は、日蓮の弟子の六老僧のうち、日興師以外が師匠の本意を理解する事が出来ず、裏切った結果の宗派であると教わりました。
そしてこういった考え方は今の創価学会でも受け継がれていて、創価学会に弓引く裏切者や、創価学会の活動に沿わない事を言い、行動する人たちについて「五老僧の末裔」とか「五老僧の様な裏切者」という言葉を平気で使っています。
しかし創価学会の活動を離れ、日蓮の歴史やその門下の歴史を改めて見直してみると、五老僧というのは裏切者という単純な構図では語れない人たちである事が解りました。
そこで今回は、この五老僧の事(五一相対)について少し書いてみます。
◆五一相対
日蓮正宗で「五一相対」という事で、大石寺の開基である日興師と他の五老僧との間を対比しています。ではこの「五一相対」という言葉はどの様な意味なのか、それについては「大白法:平成19年8月16日)の教学用語解説に書かれているので、以下に紹介してみます。
五一の相対とは、日蓮大聖人の御入滅後、本弟子六老僧のうち、日興師と五老僧(日昭・日朗・日向・日頂・日持)との間に生じた法義・信仰上における正邪の相違をいいます。
これは、日興師の『富士一跡門徒存知事』や、また日興師の命を受けて書いた三位日順師の『五人所破抄』に詳説されていますが、それらの相違点を挙げると概以下の通りとなります。
一、本迹勝劣一致の問題
法華経には始成正覚の釈尊が説いた迹門と、釈尊の五百塵点劫の成道を説いた本門の二門があり、そこには垂迹と本地の勝劣があります。その上で天台大師は、迹門も本門の開顕によって本門の中の迹門となれば同じ一味平等の妙法であるとし、「本迹異ことなると雖いえども不思議一」と釈して迹門の一念三千を説かれました。五老僧は、日蓮の教えはこの天台の教義をそのまま踏襲しゅうしたものとして本迹一致を主張したのです。しかし、日興師は、天台は薬王菩薩の後身として迹門を面として弘通され、日蓮は上行菩薩の再誕(内証本仏)として末法に本門の肝要の妙法五字を弘通されたことを示されます。そして、
「本迹既すでに水火を隔へだて」(御書一八七七頁)
と本迹勝劣を論じ、五老僧の本迹一致の邪義を破折されたのです。
二、本尊の問題
日蓮没後、南部の地頭波木井実長は、日向の教唆もあって釈尊の一体像を造立しました。日興師は、それを止めるために幾度となく教誡された上で、それでもあえて立像仏に執着し帰依するならば、上行等の四菩薩を添加するのが至当であるとして一体仏を否定されました。するとそれを聞いた他の老僧やその門徒たちは、至るところで四菩薩の造立を始めました。
これらの愚行に対して日興師は、一体像は小乗の仏より劣り、末法の機根からすれば本尊としての利益はないこと。また、四菩薩添加の真意は、一切の造像を停止するための一時的方便であることを御指南されています。そして、日蓮所顕の妙法漫荼羅御本尊こそが末法適時の御本尊であることを仰せられ、日蓮御本意の漫荼羅御本尊を軽視する五老僧を破折されたのです。
三、方便寿量助行・題目正行と一部五種行の問題
日蓮の常の御所作は、助行として方便品・寿量品を読誦され、正行として題目を唱えられていたことは紛れもない事実です。ところが五老僧は、如法経(写経)や一日経(大勢が集まり、一部の経を一日で書写すること)などの五種行を修していました。
日興師は、五種の行は法華経に説かれたところではあるが、それは正法・像法時代の摂受の行であること。末法は一部読誦を専らとせず(方便品・寿量品を読誦し)、ただ妙法の題目を唱え、折伏を行ずることが末法適時の行法である、と破されています。
四、神社参詣を許すや否やの問題
五老僧は、現当二世の所願を祈るために信徒の神社参詣を許しました。
日興師は、『立正安国論』の正意に基づき、一国が謗法であれば善神はことごとく社を捨て去り、かわって悪鬼神が乱入して災いを起こすのであるとして、神社参詣を禁じて許しませんでした。
五、日蓮が弟子と天台沙門の問題
五老僧は、日蓮を天台の余流であるとし、自らの奏上に「天台沙門」と称して国家の長久を祈願しました。
日興師は、自らの申状に「日蓮聖人の弟子」と称されており、「天台沙門」と称する五老僧を歎げかれています。そして謗法の僧等に与同して国家の長久を祈る五老僧を糾弾されています。
六、御書尊重不尊重の問題
日蓮はその御在世中、信徒によって漢文体、または仮名文字を使って御指南されましたが、五老僧は、日蓮を天台の余流と考えていたために、日蓮の仮名書きの消息文よりも天台の漢籍を重視していました。そして、仮名書きの御書を日蓮の「恥辱を顕あらわす」ものとして漉き返しにしたり、焼却をして、御書の重要性を軽視したのです。
日興師は、大聖人は末法適時の教法を説くために相手の機情を鑑みられて、漢字、あるいは和字をもって教化を施されたのであり、それらの御書はすべて末法の聖典であると尊重されました。また十大部を選定すると共に、日蓮所立の仏法が世界に流布する時には、それら各国の言葉に翻訳されることも仰せです。
七、本門の大戒と一向持戒の問題
五老僧は、天台が用いた梵網経・瓔珞経等の四十八軽戒を受持すべしとしたようです。日朗などは自分の弟子を比叡山で受戒させました。
これに対して日興師は、日蓮の正意たる法華本門の大戒(三大秘法の受持)に立って、爾前迹門の戒に執着する五老僧を破折されています。
この五一相対を以って、大石寺では日興師を日蓮の直系として、ほかの五老僧を非難しています。またその教学的な流れを汲む創価学会においても五老僧を「忘恩の輩」の様に安易に断じている姿を良く見受けられたりするのは先に紹介した通りです。
しかし日興師と他の五老僧はそれほど単純な「正邪」で割り切る事の出来る関係であったのでしょうか。また他五老僧は本当に日蓮を裏切るような存在になっていたのでしょうか。
ここではこの「五一相対」を足掛かりとして、六老僧の日蓮滅後における行動について考察をしてみたいと思います。
(次回へと続きます)