
富士宗学要集第二巻によれば、五人所破抄には「嘉暦三戊辰年七月草案す 日順」とある。
嘉暦三年(1328年)と言えば、六老僧は既に亡くなり日興師も最晩年の時であった。ここにある「日順」とは重須談所(北山本門寺)の二代学頭職にあったもので、日興師から薫陶を受けた弟子なのです。
この状況を考えてみると、日興師が自身の晩年となり、師匠の日蓮に対する考え方、またその教説に対する考え方について、他の五老僧と自分ではこの様な認識の違いがあった事を明確に語っておきたい事から、五人所破抄を重須談所の当時の学頭であり弟子である日順に起草させたものであったと思われます。
このブログでは本文については紙面の関係上全文掲載はしません。全文については日蓮大聖人御書全集等に記載されているので、そちらを参照してください。
1.日興師と五老僧について
一般的に日蓮正宗関係では日興師と他五老僧を「五一相対」という視点で、一人対五人という対立軸で取り上げていますが、六老僧の関係を見ると単なる一人対五人の縮図という単純な関係で見る事が出来ないのが解ります。
ここで五老僧について少し振り返ってみます。
まず日昭師だが「本化高祖年譜」によれば、日蓮より十四歳年長であったという説もあります。この日昭は「法華本門円鈍戒血脈相承譜」には「権律師日昭」と記載されている事から、比叡山に修学した時代に受戒してこの僧位僧官を得たと考えられる事は前の記事でも紹介しました。
もし日蓮滅後に日昭が「天台沙門」を名乗るために受戒したというのであれば、当然、五人所破抄にもそこについては指摘されるはずですが、一切指摘はされていません。また師匠である日蓮もこの日昭師が「天台宗権律師」を持っている事について指摘や批難もしていないのです。
また日朗師は日昭師の妹の夫の義理の弟にあたり、甥という立場です。その事から同門の先輩であり叔父である日昭師の影響も当然、受けたという事は充分に考えられるし、晩年に日興師の居住した北山本門寺を訪れ、そこにある御影を見て涙したという事を考えた時、単純に「師匠の事を理解していない輩」という事で断ずる事が出来ないのではないでしょうか。
日向師については、日蓮在世の時には報恩抄を奉じて小湊に赴き、道善房の墓前で日蓮の代わりに代読したり、「御講聞書」を著したりした事から、日蓮からの信頼もあったと思われます。
しかし日蓮滅後に地頭の波木井氏の福士の塔建立等を黙認したという事から日興師と義絶したとありますが、ほかの四人の老僧とも不仲であった事が伝えられています。日蓮没時には池上におらず、墓輪番を定めた時には日向師は不在でもありました。また身延の初代別当となったといいますが、日興師以外の五老僧の中心となった訳ではなく、晩年はさみしい状況であった様なのです。
日持師については、もともとが駿河蒲原の天台宗寺院の四十九院で日興師に師事して修学していましたが、日興師と共に四十九院を追放され日蓮の元で同門門下となりました。日蓮没後には日興師とは不仲となり、日興師が身延を離山してからまもなく行脚の旅へと出立したと言われています。
日頂師は元々が富木常忍の養子であり、日蓮没後には墓輪番にも参加していた様ですが、父である富木常忍から永仁元年(1295年)に勘当された後、日興師の元で重須本門寺の学頭に就任しています。
以上、簡単ではありますが、五老僧の状況を簡単にまとめてみました。こう見ていくと単純な「五一相対」として六老僧間の人間関係が捉えられない事が解りますし、何も五人だけではなく、例えば富木常忍や四条金吾、また池上宗仲の事や、彼らが日蓮没後にどの様に振舞ったのかを省みていくと、それほど単純でない事が明確に判るのです。
富木常忍は中山法華経寺を建立し、池上宗仲の邸宅は池上本門寺、四条金吾は南部の地で寺院を建立していますが、何れもいまは日蓮宗派の寺院となっています。
2.天台沙門の名乗りについて
また五人所破抄では、日興師以外の五老僧は「天台沙門(天台僧)」であると述べ、日興師は「(日蓮は)上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり」と述べ決して天台沙門ではないという立ち位置の違いがある事を述べているとあります。
しかし日興師自ら書写した「立正安国論」(玉沢妙法華寺蔵)では「「天台沙門日蓮勘之」と記載されている事があり、千葉県市川市中山・法華経寺蔵の「日高写本」、千葉県香取郡多古町島・正覚寺蔵の「日祐写本」、千葉県香取郡多古町南中・(峯)妙興寺蔵の「日弁写本」の計三本に「天台沙門日蓮」との名乗りが確認されている事から文応元年(1260年)七月十六日、日蓮が前執権最明寺入道時頼に「立正安国論」を進呈した時、「天台沙門」の名乗りであったことが窺えるのです。
また日蓮の真筆書を確認しても、日蓮一門として独自の宗派を語るものはなく、これは日興師が自身で日蓮の常髄給仕した事の経験から、晩年になり「(日蓮は)上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり 」と確信した事だと思われるので、単純に他五老僧が「天台沙門」の名乗りを挙げた事を指摘して責めるというのも、中々厳しいのではと思うのです。
3.奏上について
また五人所破抄では、他五人が「五人武家に捧ぐる状に云く未だ公家に奏せず」と「日興公家に奏し武家に訴えて云く」と、他門派と日興門派を比較していますが、日蓮や六老僧の生きた時期は武家政権の時代であり、この五人所破抄を起草した時期は鎌倉幕府が衰退し、従来の公家や朝廷が復権しだした時代なのです。
【 鎌倉時代末期の略年】
◆文保二年(1318年)後醍醐天皇が即位、天皇を中心とした政治体制の再構築を企てる
◆正中元年(1324年)後醍醐天皇の蜂起計画が露呈し側近や公家が処罰される(正中の変)
◆元弘元年(1331年)後醍醐天皇、討幕計画を立てるが事前に発覚し隠岐の島に配流(元弘の変)
◆元弘三年(1333年)足利高氏が北条高家が久我畷の戦いで戦死したのを見て後醍醐天皇側に付き六波羅探題を落とす
こう見ると、文保二年には日昭師と日朗師は存命しているが、すでに晩年であり奏上に耐えるものではなく、日向師や日頂師は既に他界している状況でした。日持師に至っては既に弘教行脚の旅に出立して久しいのです。
後醍醐天皇が天皇家を中心にした政治体制を考え、動き始めた頃には六老僧の中では日興師だけが動ける状態であると言っても良く、この状況を見ればこそ公家等にも奏上を行う事が可能になったとみるべきではないでしょうか。
日蓮自身、はじめは最明寺入道(北条時頼)に奏上していた事を考えると、この「武家に訴えた」「私達は公家にも訴えている」という主張は、殊更自分たちの行動を称賛しようとするものであり、穿った見方をすれば、自分たちの優位性を語るようにしか見えず、これはいただけないと思います。そしてそれは今の時代の創価学会を始め宗門や顕正会にも通じる自組織への自画自賛なる風すら感じてしまうのです。
4.日蓮の捉え方の違い
また日興師と他の五老僧について、日蓮に対する視点が異なることを、ここで取り上げています。
恐らく六老僧それぞれ、日蓮が没した後に、武家政権に申状の提出を求められたのでしょう。日蓮が亡くなったとは言え、日蓮教団は鎌倉幕府からは常に厳しい目で監視されていました。
これは何の申状なのかの詳細が書かれてないので、そこは不明ですが、各人それぞれの立場を述べているのです。
天台の沙門日昭謹んで言上す。
先師日蓮は忝くも法華の行者と為て専ら仏果の直道を顕し天台の余流を酌み地慮の研精を尽すと云云。
又云く、日昭不肖の身為りと雖も兵火永息の為副将安全の為に法華の道場を構え、長日の勤行を致し奉る、已 に冥冥の志有り豈昭昭の感無からんや詮を取る
日昭師の場合、天台沙門と自身の立ち位置をのべ、日蓮を法華経の行者であることを述べ、天台宗の流れを汲んでいることを述べています。
天台沙門日朗謹んで言上す。
先師日蓮は如来の本意に任せ先判の権経を閣いて後判の実経を弘通せしむるに、最要未だ上聞に達せず愁欝を懐いて空しく多年の星霜を送る玉を含みて寂に入るが如く逝去せしめ畢んぬ、然して日朗忝くも彼の一乗妙典を相伝して鎮に国家を祈り奉る詮を取る。
日昭師も天台沙門と自身の立ち位置を述べ、日蓮は釈迦の本意を弁え、権経と実経を判別し、実経を弘通したと述べている。
天台法華宗の沙門日向・日項謹んで言上す。
桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を汲み立正安国論に准じて法華一乗を崇められんことを請うの状。
右謹んで旧規を検えたるに祖師伝教大師は延暦年中に始めて叡山に登り法華宗を弘通したもう云云。
又云く法華の道場に擬して天長地久を祈り今に断絶すること無し詮を取る。
日向師と日頂師も共に天台沙門であると述べ、日蓮は伝教大師の流れを受け、立正安国論にあるように法華経を崇めたのであると述べたのである。
それに対して日興師はどの様に捉えていたのか。
日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり、所謂大覚世尊未来の時機を鑒みたまい世を三時 に分ち法を四依に付して以来、正法千年の内には迦葉・阿難等の聖者先ず小を弘めて大を略す竜樹・天親等の論師は次に小を破りて大を立つ、像法千年の間異域には則ち陳隋両主の明時に智者は十師の邪義を破る、本朝には亦 桓武天皇の聖代に伝教は六宗の僻論を改む、今末法に入つては上行出世の竟本門流布の時なり正像已に過ぎぬ何 ぞ爾前迹門を以て強いて御帰依有る可けんや、就中天台・伝教は像法の時に当つて演説し日蓮聖人は末法の代を 迎えて恢弘す、彼は薬王の後身此れは上行の再誕なり経文に載する所・解釈炳焉たる者なり。
日興師は日蓮を法華経にある地涌菩薩の上首、上行菩薩の再誕であり、法華経本門弘通の大導師であると述べている。そして天台宗の祖師である天台大師や伝教大師は、仏法上、薬王菩薩の再誕とされているが、師匠の日蓮こそは、釈迦本門の弟子である上行菩薩の再誕であり、故に天台宗の流れを汲むものではないと語っている。
何ぞ地涌の菩薩を指して苟も天台の末弟と称せんや。
故に何故、この上行菩薩再誕の日蓮を指して、天台沙門と云うのかと五老僧の日蓮の捉え方をここで糾弾しているのである。恐らく日興師が他五老僧に対して持ち合わせていた不満というのは、この日蓮に対する捉え方についてではないだろうか。
たた日興師と日昭・日朗師では場が異なります。
日興師の本拠は南条氏の領地の中であり、日昭・日朗師は幕府所在の鎌倉です。日向日時は波木井氏の身延と思われます。
六老僧にはそれぞれ門人も居れば信徒もいます。まだ権勢強き幕府の近くにあれば、おのずと「天台沙門」として弁を述べ、少しでも門人信徒を守ろうと言う思いもあったかもしれません。こと日昭師は高齢者であり、日朗を始め日向・日頂師も高齢となれば、こういった言動が出た事はけして責められはしないと思います。
またそもそも考えなければならない事なのですが、この五人所破抄が認められた時、六老僧では日興師のみ存命であり、他五老僧は既にこの世にいませんでした。残っているのは五老僧の門下であるので、もし責めるのであれば五老僧ではなく、五老僧門下に対してではないでしょうか。
私が五一相対を「欠席裁判だ」と感じるのは、そういう時期にこの書は日興師の門弟の一人が認めた書であり、それが師僧の兄弟弟子たる五老僧を責め抜く事は少し違うと思いませんか?
この当時は既に鎌倉幕府の威光も落ち始めた頃と思いますが、そんな時代に安住した日興門下が、単純に鎌倉幕府と対峙し続けていた先輩僧を「忘恩の輩」「不知音の輩」とぶった切る事は、人としてどうなのかと思えてしまうのです。