
今回から少し私の信仰観について書いてみます。
彼の作家、遠藤周作氏はキリスト教を信仰していましたが、「沈黙」という自身の作品の中でキリスト教に対する疑問を自身の中でぶつけて信仰を一旦破壊して、そこから自身の中にある信仰観を再構築したのは有名な話です。思うに自身の信仰を深化させる為にも、いまある信仰観を破壊するというのは極めて大事な事ではないでしょうか。
◆創価信仰の破壊
私の場合、三十代後半で組織の中で疑問を感じ、壮年部になってからその疑問に少しでも解決の道を模索しはじめた時に、組織によって青年部時代に信じてきたことが壊されてしまいました。要はそれまで青年部の中で教わってきた池田大作氏の指導を実践しようとしたところ、その池田大作氏の育成してきた弟子である壮年部の先輩幹部により脆くも壊されてしまったのです。
これは私の精神に大きなダメージを与えました。
それまでの私は創価学会の中で生きて行けば、人生に巻き起こるであろう様々な困難も乗り越えていける事を信じ、それは自身の臨終の時も同様に乗り越えていけると確信していました。これは単なる観念ではなく四半世紀に渡り様々な信仰体験に裏打ちされていたものでした。
しかしこれが壊れてしまった時、私は今後、何を柱として生きて行けば良いのか途方に暮れましたが、それは家族の中でも容易に明かすことが出来ない苦悩でした。
「遠藤周作氏は自身の信仰を破壊したというが、私は創価学会により自身の信仰を壊されてしまった。」
この当時、これは今から振り返っても自分自身の情緒が一番不安定となっていた時期でしたが、幸いにして当時の職場の知人達によって、何かと支えて貰いながら日々生きてこれたと感じています。要は仕事の中で実績を示す事で、自身の存在意義を保っていた感じだったのです。
この創価学会の信仰の破壊を受けた後、私はそれまでの自分自身を振り返る為にも以下の事について考えてみる事にしました。それは、
①日蓮の志を知りたい。
②池田大作という人物像を知りたい。
私が四半世紀に渡り信じ求めていたのは、実にこの二つの事が基本になっていました。その為にやはりこの事について自分自身が納得できる様にならないと、創価学会の信仰から離れる事は難しい事なんだろうと自分は感じたのです。
よく創価学会を辞めて日蓮正宗に移ったとか、逆に日蓮正宗を辞めて創価学会に移ったとかして、「私の選択は正しかった」という人が居ますが、そういう人は大抵、この自身の信仰の遍歴について直視せずにまるでサーフィンの様に宗教を乗り換えたりしています。これについてある人は「宗教サーファー」と呼んでいましたが、これは面白い表現ですよね。
この2つの事を私自身が納得できるまでには、そこから三年ほどの時間を要しましたが、その結果、今の私は創価学会のいう「日蓮大聖人の仏法」や「永遠の師匠、池田大作」という呪縛から離れる事が出来て、自分自身の中に新たな信仰観を作る事が出来ました。
このブログにこれまで書かせてもらった内容は、全てこの私自身がこの事について振り返りをした中で、新たに自分自身の中で構築してきた信仰観に基づいて書かせてもらっています。
◆信仰体験について
この中でまず初めに理解した事は「信仰体験」の仕組みについてです。
創価学会の活動家、また日蓮正宗の信徒の方々もそうですが、「自分達は正しい仏法を信じている。正しい仏法には力があり、祈りは叶えられる」と考えています。要は自分達が「正しい」から「信仰体験も得られる」という事であり、もし間違えた宗教であればそこでの功徳(御利益ですかね)という体験を得ても、それは魔の所為であり何れは必ず不幸になると教えています。
でも果たしてそうなのでしょうか?
ここでまず「正しい教え」という事について、少し考察をしてみます。
創価学会にしても日蓮正宗にしても、それぞれが「自分達が正法(正しい教え)を護持している」と主張していますが、では一体何を持って正しいと言うのでしょうか。これを聞くと恐らく三証を以って自分達の教えは正しいと彼らは主張します。
この三証とは「文証(文献的な証明-経典などに明文化されている事)」「理証(論理的に合致しているという証明)」「現証(文証と理証を元にした現実的な事象による証明)」を言いますが、これについては日蓮の御書には以下の様に書かれています。
「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)
この御書のこの部分だけを読むと、「文証と理証は大事だが、現証に勝るものはない」と読み取れます。
創価学会では特にこの言葉を会員に指導する際に多用します。要は理屈抜きに結果を出せる宗教である事が大事だという事なのでしょう。池田氏も「正義の旗平和の心」という長編詩の中で以下の様に語っていますが、この内容も振り返って見ればこの様な創価学会の思想性の表れであったと思います。
「正義必ずしも勝つとは限らぬ・肝要なのは正義なるが故に断じて勝たねばならないという我らの強靭なる不退の一念だ」(引用元:池田大作氏の神奈川への長編詩「正義の旗、平和の心」より抜粋)
これなどは「正義」を証明する為に「勝利」という現証こそ大事であるという指導でしょう。
創価学会が「現証」を特に重要視するのは、こういった教学的な背景があるからです。
しかし先ほどの「三三蔵祈雨事」の内容をよく読んでみると、単純に「現証」が大事という訳ではありません。そこには前提として「法華経こそ最第一の経典である」という前提があるのです。
この御書は中国唐代の三人の三蔵法師(道宣・玄奘・慈恩)が雨乞いをした結果、彼らは法華経を誹謗していたが故に祈雨に失敗した事を上げ、その後に法華経の僧が祈雨したところ雨が降った事を明かして「現証にはすぎず」と述べているのです。
つまり前提として「文証・理証」の上で整合性がとれているからこそ、現証として意味があると言う意味であり、けして何はなくとも「現証」さえあれば、それで正しいという事を述べている訳ではありません。
でもこれを指摘すると「私達の教えは当然、正しいのだ」と創価学会や日蓮正宗の信仰者は言うでしょう。
しかしそこは少し考えてみて欲しいのです。
果たして今の創価学会や日蓮正宗が正しいのか。「文証」「理証」をしっかりと証明できるのか、そこは振り返らなければなりません。
例えば「文証」というと、これを経文にある記述や、御書にある言葉を指して文証だと彼らは単純に言います。確かに文献にある言葉は大事なのですが、ではその文献にある言葉をどれだけ理解して彼らは語る事が出来ているのでしょうか。
◆文証・理証に対する考察
以前に私は仕事である会社の社長と懇談する機会がありました。
その社長はとても興味深い事を述べていて、それは以下の様な事でした。
「人の思考とは三次元(空間)であり四次元(空間+時間軸)となっているが、人と人が意識伝達をする為には二次元(文字・言語)の媒体しか持っていない」
この言葉はかなり含蓄が深いと思いました。
例えば人は毎晩大抵「夢」を見ています。これを読んでいる人もそうですよね。寝ている間には様々な「夢」を見ますが、その「夢」とは大概突飛な出来事の連続だと思います。
ではその「夢」で見た情景を他者に伝える際、どれだけ正確に人は他者に伝える事が出来るでしょうか?
私は「夢」の大枠な事を人は「言葉」で伝える事は出来たとしても、その詳細について人は他者に完全に伝達は不可能だと思うのです。恐らく夢の内容を語っても、その説明を聞いた人はその人の経験と記憶の中にある情報を使いながら、聞いた話を自分の中で再構築して理解しているにすぎないので、完全に語られた夢と同じ情景を描く事を人は出来ません。
「そんな事当たり前ではないか、何をお前は語ってんだ?」
ここまで私の書いた事を読んだところで、多くの人はそう感じるでしょう。
私がここで言いたいのは、人の想いや語りたい真実というのは、今の人間は「文字」と「言葉」で継承するしかありません。そしてこれらは共に二次元的な媒体でしかないのです。
つまり「文証」と言って。経文を引用し、それで相手の間違いを論う(あげつらう)事を人は容易に出来るのですが、その経文に書かれている内容を正確に把握する人というのは極めて稀有な事だと言いたいのです。
私は過去に法華講や妙観講、また顕正会の活動家たちと多く「対論の場」を持ってきました。そこでは経文や御書、時には日蓮正宗の過去の様々な文献を提示しながら、相手の論理的な矛盾を突いてきました。これはこれで「文証」「理証」のせめぎ合いをしてきたと思っていましたが、それでは私がその対論の中で示してきた経典の言葉や御書の言葉が本当に語りたい事を私は理解出来ていたのかと言えば、実は殆ど理解していない事に気付いたのです。
確かに言葉をやり取りし、互いの語る内容の矛盾点を突きながら「俺は勝った」「お前は負けた」という事には決着が着いたとしても、果たしてそんな事の為に学んだ事が、実際の私の人生の中でどれだけ役に立っていたのかと言えば、実は何も役立つ事はありませんでした。
大事な事は、経典にしてもそうだし御書についてもそうですが、そこに綴られている文字の背景にある「伝える想い」をどれだけ私が読み取ろうと努力をしたのかと言えば、実はそこへの努力というのは殆ど行っていなかったのです。
これでは「ゲーテ読みのゲーテ知らず」という欧州の諺がありますが、経典や御書を引用しながら、実は仏教や日蓮の語ろうとした本質に近づいていないではないか。それが私の気付きでした。
そしてこの気付きを得るためには、実は経典や御書以外にも様々な文献や人の語る情報に触れながら、自分自身の中で「思索の畑を耕し続ける」事を行いながら、その文字として書かれている内容の奥底を読み取る素養を自身の中で養いながら、思索をしていかなければ難しいと私は理解したのです。
法華経の教えは優れている。
日蓮の教えが正しい。
だから創価学会は正法の組織だとか、日蓮正宗こそ正しく清らかな組織だと言う前に、まず私達はそういう処に気付く必要があるのではないでしょうか。そしてその上でならば「正しい教えだからこそ、信仰体験も出来る」という言葉を口にする事が出来ると私は思うのです。
でも多くの創価学会や日蓮正宗の信徒たちは、そういった努力をせずに、多くは組織の指導者の言葉を受け売りで語っているに過ぎません。これはこれでとても残念な事だと思います。
ちょっと難しい内容でしたかね。
次に「信仰体験」の事について、私が考えた事を書きたいと思いますが、それは次の記事で書いてみたいと思います。