自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

私の信仰観②

さて昨日からの続きです。

私が以前に少し経験した事を書きます。

もう十年近く前の事でしょうか。私は当時、ブログなどを通じて創価学会の周辺の人達と様々な交流をしていました。

◆ある男子部からのメール

そんな中で、とある地方の男子部幹部(部長と言っていましたが)からメールで抗議を受けました。それは「貴方の言動は池田先生、創価学会に対する大きな裏切り行為である」という内容で、そのメールには切々と自身の心情を吐露し、私のアンチ創価学会という姿勢を糾弾するものでした。

そこで私は当時、様々な創価学会の周辺状況や、末端組織での矛盾、そして師弟不二という創価学会の教義について反論をメールで返信しましたが、彼はそれを頑なに否定して来た結果、メールでの議論は決裂してしまいました。

このメールのやり取りで判ったのは、かれが地方の男子部で役職は部長である事と、職場も金〇堂という企業に勤めている事でした。要は昔風の言葉で言えば、創価学会周辺企業の「三公社五現業」の様な会社で仕事をしているという事だったのです。

その後、彼からは何の音沙汰も無くなり、私も彼の事を忘れかけていたある時、そうですね、メールをやりとりしてから一年ほど経過した頃でしょうか。彼から一通のメールが届いたのです。

「私はこの度、創価学会を脱会しました。そして日蓮大聖人仏法の正統なる日蓮正宗に入信しました」

そのメールにはそんな事が書かれていました。これ、宗門では「再入信」と呼んでいるのでしょうか。私はそんなメールで彼の事を思い出しそして驚きもしました。

そしてメールで返信し確認すると、仕事場である金〇堂は既に退職した事、創価学会も既に脱会した事と、家族(妻と子供)も一緒に日蓮正宗に再入信したというのです。彼の周囲の親戚筋は地元では幹部の家系だったらしく、親族内でもかなり波紋を呼んだ事も書かれていました。

でもあれだけ私に対して強固に「アンチ創価学会」を否定してきた彼が、何故にこの段階になって日蓮正宗に再入信したのか、そこについて尋ねてみました。

そこで彼が語った内容は、大枠以下の事だったのです。

・住んでいる地方都市では、宗門問題以降も創価学会に残る人が多かった
・彼は仏壇を売る中で、実は創価学会の会員には罰を受けている人を多く見た
・それは家族の病気、不幸、メンタルの問題など学会員で問題を抱えてる人が多くいた
・彼はそんな人達を日蓮正宗につなげる事を行った。これは彼の中で実験だった
・すると宗門に入った人は立ち処に問題が解決した(功徳の現証を見た)
・そこで創価学会に不信を抱き、自分自身も日蓮正宗に再入信した。

大たいこの様な内容でした。

そんな彼は私に対して日蓮正宗に入信する事を勧めては来ませんでしたが、日蓮正宗の素晴らしさ、正しい仏法の在り方を滔々とメールに書き綴ってきたのです。これには私も少し面喰いましたね。一年前までアンチ創価学会の私の言葉には耳も課さず「裏切者」「恩知らずの輩」とメールで罵倒してきたのに、同じ人間が今度は創価学会を極悪と言い、池田大作氏を詐欺師と呼んで日蓮正宗こそ正しい仏法の団体だと讃嘆するんですからね。

まあ人の心というのは移ろい易いものなので、そういう事もあるでしょう。でも私が気に入らなかったのは、会員を「実験」と称して自分よりも先に、自分の仕事上の顧客でもある創価学会員を日蓮正宗につないでいった事ですね。もし彼の中に人としての責任感があれば、まず自分自身が率先して入信すべきだったのではないでしょうか。

まあでも、そんな事はどうでも良いんですけどね。

彼は私に対して日蓮正宗に入信しろとは言ってきませんでしたが、一日も早く正道に気付いて宗門に着く日が来ることを祈っていますという言葉でメールでのやり取りを締めくくってきました。

私は創価学会も嫌いですが、日蓮正宗も大嫌いです。だからそんな事は余計なお世話ですけどね。

◆信仰体験について

さて、ここで紹介した男子部ですが、彼は自分自身の眼の前で問題を抱える創価学会の会員が、日蓮正宗という宗派に鞍替えする事で、めきめきと問題を解決するという「現証」に目を奪われ、そこから日蓮正宗という宗派こそが、この世界で唯一無二の正しい仏法教団だと確信しました。

一方で私の地元では逆の事も多く聞いてきました。これは私が男子部最期の方で、県教宣企画室長という立場で、脱講した多くの元日蓮正宗信徒から聞いた体験です。

それ以外にも、私が子供の頃から家族付き合いしていた家の叔母さんが、創価学会に嫌気がさして脱会し、日蓮正宗に鞍替えしましたが、その後に癌を発症してしまい、一時期は小康状態でしたが見るまに体調が悪化して、最後に七転八倒の苦しみの後に亡くなったという話しもリアルに見ていました。

これについて地元組織内では「脱会者の悲惨な末路」なんて言っていましたが、子供の頃からその家の叔母さんには私も何かと大変お世話になっていて、けして悪い人では無かった事を知っているし、そもそも脱会の原因を作り出したのは地元の婦人部幹部の粗野な言動である事を知っていたので、私はそんな組織評価には反発もしていました。

こんな事を観ていると、果たして「正しい仏法には力がある」「だから信仰体験も素晴らしい」という話しについて、私は男子部にいた当時から常に懐疑的でもあったのです。

むしろ「良い信仰体験」とは、その体験をする人の心の姿や姿勢によるものであり、そもそも信仰(信心)とは、そんな信仰体験を求めるものでは無いのではなかろうかと。

これが男子部に居た時から私が持ち合わせていた信仰体験について考えていた事でした。

そして私自身、創価学会の活動を離れて日蓮の御書を独自に読み進む中で、以下の御書を見つけました。

「唯仏の遺言の如く一向に権教を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権教に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。」(唱法華題目抄)

唱法華題目抄とは初期に日蓮が著した御書で、ある意味で日蓮の思想の大原則が書かれている御書と言っても良いでしょう。そこには「法の正邪は利根や通力によるな」と明確に書かれています。つまり日蓮は自身の思想を「正法」と言いましたが、その正法を見極めるのに「利根(頭脳明晰な姿)や通力(摩訶不思議な現象を起こす力)」に頼ってはいけないと明確に書かれているのです。ただ只管「法」に依れとあります。

これって、要は「現証」に惑わされてはいけない。そういう事ではありませんか?

思うにこれはこのブログでも過去の記事には散々書いてきましたが、人の心には「周囲の環境を創り出す力」というのは誰にでも具わっている事であり、だから仏教でも初期の経典である華厳経に「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」を説かれ、法華経にある「一念三千」という教理も、深く考えてみると同様な事を志向している訳です。

近年では科学の世界の量子力学では「人が実験を観察するという行為が、実験結果に影響を与える」という摩訶不思議な事が言われています。

つまる処「自分達の正しい教えの結果、良い御利益が得られる」という考え方は、単なる宗教信者による勝手な我田引水の解釈であって、実はそんな事は全く無かった。

そういう事ではありませんか?

だからこそ、この世界に数多ある宗教では、それぞれに「奇跡体験」としか言えない「信仰体験」というのは存在する訳であり、あのオウム真理教や顕正会でも「信仰体験」の話が出て来るという訳でしょう。

だから日蓮も法の正邪は「利根と通力とにはよるべからず」と御書に書いたのではありませんか?

斯くいう私も、創価学会の活動を離れた後にも「信仰体験」の様な体験は、様々ありましたし、恐らく先に紹介した男子部が実験で日蓮正宗に付けた創価学会の会員も、不幸を感じる様な根本的な悩みや苦悩を心の奥こそに抱えながらも、実は創価学会に残っていたのではないでしょうか。だから創価学会に居たとしても、その環境というのは心の奥底の動きをそのまま反映し、悩み苦しむ状況だったのではないかと思うのです。

人の心の動きというのは、本人さえ認識できない深層で動くものですからね。

そして日蓮正宗に移った事で、その心の奥底にある悩みや苦悩を解決した事から、様々な御利益体験をしたのではないでしょうか。

私はその様に理解しています。

私は仏教を学び信じて信仰する目的というのは、なにも功徳と呼ばれる御利益体験を得る事ではないと考えています。大事な事は、そういう人生の上で幸不幸を実感し続ける根源にある「心の実像(実相)」を理解する事こそ、仏教を学ぶ目的なのではありませんか?

そうであれば、信仰体験などという出来事は、枝葉末節の事にしか過ぎないと思いますし、信仰の目的としてそこを追いかけるのは間違えているとさえ思うのです。

とは言え、苦しむ人々は存在しますので、何もそこを放置して置けという事ではありません。そういう人たちにとっては信仰体験を得る事は、自身の心の実像を理解するための初門(導入部分)にもなるので、そこは大事にしてあげても良いでしょう。しかしそれが仏教の目的ではなく、さらにそこから視点を深く持って行かせるべきなのです。

「浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり」

日蓮が複数の御書の中でこの様な言葉で訴えているのも、そういう事ではないでしょうか。

もう少しこの話題は続けていきます。