
この記事について続けます。
私は青年部時代には「この信心(創価学会の信仰)を離れなければ、人生全ての問題は必ず乗り越え解決が出来る」と信じていました。そしてその根拠としては「祈りとして叶わざる無しの御本尊」をたもち、そこに祈れば全て解決できると信じていましたし、それは多くの信仰体験に裏打ちされた思いでした。
しかしこの信心を、結果として創価学会の中で壊されました。
壮年部になり、そこで見た組織の様々な矛盾。それを変えようと思いましたが、それは結果として組織の幹部との間に軋轢を生み、組織から弾かれました。この創価学会の信心を続けるためには、創価学会の組織を離れては存在しないという、いわば「組織依存」があり、結果としてここまで信じていた信心は壊れてしまいました。
その後、私は十年以上悩みながらも考えて自問自答しましたが、そこで考えた事は、そもそも「信仰」とは何なのかという事でした。
「信仰」とは「信じ仰ぐもの」の事であり、考えてみればそこに「信仰体験」というのは求めるべき事では無かったのです。信仰体験とは信仰という事を続ける中で、まるで「豆腐のオカラ」の様に、その中で付いてくるものであって、けしてそれは求めるものではありません。
この事は過去に、創価学会の戸田会長も似た様な事を言っていた事でした。
◆私の体験
ここで私の体験を少し話しておきます。
私は学会活動から離れた頃ですが、実は当時の会社から言われて新規事業を立ち上げる事に携わっていました。
会社から予算を与えられ、二年間の間に事業を立ち上げて、まずは「單黒」まで持って行け。要はその事業だけでまずは黒字が出る様に立ち上げろと言うのです。
この当時の私は未だ「祈りとして叶わざる無し」という言葉を信じていましたので、始めの頃は、夜中に良く御題目を唱えていました。一時間の時もあれば二時間の時もあります。事業立ち上げもそうですが、その事業のスタートアップに何が必要なので、この唱題の中で思索もしました。また営業も自分で考えて行わなければなりません。それは本当に徒手空拳の中で日々必死に取り組みました。
半年は事業の骨子を作り、半年以降から営業活動をしながら、この事業の骨子をより具体的に作っていく事をしました。そこでは様々な人と出会いながらも、幾つか見積も取れる様になってきましたし、そして小さい営業案件の契約も取れ始める事が出来る様になってきました。
しかしその段階で起きたのがアメリカ発の「サブ・プライムローン」の問題です。
これは私の立ち上げ始めた新規事業には、とても大きな影響を与えました。それまで幾つかの会社から見積依頼を受け、より具体的な話を進めようとした段階で、全ての会社から契約不可の連絡が入ったのです。
「斎藤さんには申し訳ないが、この状況では契約は出来ない」
これは何気に大きなダメージを受けました。
しかしそれでも事業は進めなければならないので、その当時は会社の事務所に居る時にはテレアポを1日50件以上かけ、そこで訪問の約束を取り付けて営業活動を行う事を必死で行いました。
しかし中々、見積を得る処まで行かず、偶に見積を得たとしても結果として「時期が悪い、もう少し検討させてください」という事になっていったのです。
この状況に当時の社長からも「斎藤は営業取れると言っていたが、嘘つきだ」「お前に投資したお金は会社からすれば騙された様なものだ」と事ある度に責め立てらる状況に陥ってしまい、月に2回の経営会議でも常に「針のむしろ」に座る様な状況が続いたのです。
この当時、今から考えたら私は「鬱病」の一歩手前でした。
会社に出勤しても、簡単な仕事の段取りも考えられなくなり、声も出づらくなってしまいました。するとまた社長からは「お前はこんな基本的な事も解らんのか!!」と叱責され、より自分自身が委縮するという悪循環に陥ってしまいました。
まあこの当時は本当に地獄でしたね。私も自身のメンタルのおかしさに気付いていたので、真面目にメンタルクリニックに行く事を考えていました。
もうこんな状況なので、当時の私は勤行もしなければお題目も唱えていませんでした。
結局、新規事業は二年間で凍結となり、私はその業務から解放されたのですが、当時の社長からは「斎藤の次の仕事は無いぞ、お前は何をするんだ」と恒に言われる始末。
要はリストラ対象になっていたんですね。
ただその時に「捨てる神あれば拾う神あり」ではありませんが、以前の仕事でお世話になった某大手通信会社の課長から、たまたま私宛に連絡が入り、そこから今の仕事につながる事になったのです。
こんな事業立ち上げの経験は二年ほどの間でしたが、そこでの経験から私は自分の人生に対して、とても内省的になりました。
この新規事業での経験を振り返って見ると、実は今の仕事を行う上でとても重要な基礎の部分を私はこの中で作り上げられていたのです。
またこの当時、様々な中小企業の経営者に話を伺う機会を得ましたが、事業をしっかりと路線に乗せている経営者には共通点がある事にも気付きました。それは「自分自身の行動と判断を、まるで神の如く信じ抜く強い意志」でした。 多くの経営者は起業をする中で、様々な苦境に陥りますが、私がお会いした経営者の人達は、そんな苦境の最中にあっても、自分が起業をした事の目的を信じて、そこはブレる事なく必死に信じて生き抜いていたのです。
その姿は私にとってまるで「信仰者」そのものでした。
起業とは十年先に会社として生き残るのは、せいぜい1〜2%という世界です。100社起業しても十年後に生き残っているのは1社か2社という世界。そして経営失敗すれば、社長等は持てる財産は全て身包みを剥がされてしまい、それこそ一文無しになってしまうのです。
そんな過酷な世界の中で、会社を経営するのは並大抵の事ではありません。
つまり生き残っている社長の大半は「自分自身を信じ切っている人」でもあったのです。そしてそんな経営者の人達は、そんな中で花を開かせながら、業績を積み上げ、会社を発展させていたのです。
「自分自身を信じる事」
実はこれが人生にとって一番大事な事ではないのだろうか。これ等の経験から私が率直に感じた事はこの事だったのです。
◆自分自身を信じる事
しかしこの自分自身を信じると言うのは、とても難しい事だと思います。
創価学会の中で、私が最初に教えられたのは「自己否定」でした。それは小さい境涯の自分を否定し、御本尊様を信じて身をゆだねるという事でした。
「『心の師とはなるとも心を師とせざれ』とは、六波羅蜜経の文なり。」(兄弟抄)
こんな御書を先輩たちから引用され、自分自身の考えや判断を否定し、そこに組織からの指導体制を教え込み、徹底した自己否定の思考を植え付けられていました。
しかしこの兄弟抄にある言葉の解釈、実は全く違うものであると私はこの経験から気付きました。
ここで言う「心の師とはなるとも」という意味ですが、この心とは以下の様なものを指しています。
「されば経文には一人一日の中八億四千念あり。念々の中に作す所皆是れ三途の業なり等云云。」(女人成仏証)
ここでは人は朝目を覚まし、夜に眠りにつくまでの間、八億四千万の念があると言います。これは現代風に言えば感情の起伏や思考の揺らぎと言っても良いでしょう。人の心とは瞬間瞬間の中で、様々な思いが駆け巡ります。これは皆さんも経験がある事でしょう。
つまりそんな不安定で移ろい易い「心」により右往左往する生き方をするのではなく、その不安定で移ろい易い心を統率していく生き方の重要性を、先の兄弟抄では述べているのだと思います。
ではどの様にして統率していくのか。
そこで問われるのは、実は自分自身がこの世界に存在するという意味だと思います。それはけして他者に評価されたり、与えられるものではありません。自分自身の心の底からの自覚としての意味です。
そしてそこを信じれるのか、信じれないのか。大事な事はそこではないでしょうか。
ここでもう一つ、私が大事な事だと感じた言葉があります。それは「人間万事塞翁が馬」という言葉です。
ここで言う「塞翁が馬」とは、中国・前漢時代の書物『淮南子』にある話が元になっていますが、それは以下の様な話です。
昔、とある国境に住む老人が居ました。名前は「塞翁」と言います。ある時、この塞翁の下から飼っていた一頭の馬が逃げ出してしまいました。そしてそれを見た周囲の人達は、塞翁に「不幸な事だったね」と慰めの言葉を掛けました。しかし塞翁は落ち込みもしなければ、淡々としていました。しかしその後、逃げた馬は、立派な馬を伴って塞翁の下に帰ってきたのです。それを見た周囲の人は「これはとても幸運な事ではないか」と祝います。しかしそれでも塞翁は淡々としていました。その後、今度はその馬に乗った息子が落馬して骨折する大けがを負います。それを見た周囲の人達は「これは不幸な事だった」と慰めます。しかしその後、大戦が起きる中で、骨折した塞翁の息子は大けがを負っていた事から兵役を逃れました。周囲の人はそれを「運のよい事だ」と述べたのですが、塞翁は常に淡々としていたという話しです。
この話は「幸不幸はその時点では判断できず、後になって意味が変わる」という事を教訓として示す説話なのですが、人生に起きる不幸や幸福というのは、そういう事ではないでしょうか。
人は時々の状況で「これは幸福だ」「これは不幸だ」と心を揺れ動かしながら生きています。そして心が揺れた事で、足許を救われ、幸福であった事が不幸となり、不幸な状況がより不幸な状況を呼び寄せてしまうという事は良くある話です。
しかしこの人生の中で経験する様々な事に、これは全て「塞翁の馬」にある様な出来事だと自分自身信じ切り、けして自分の存在とはそんな無意味なものではないと、淡々とブレずに生きて行く中で、実は人生は開けて行くのではないでしょうか。
日蓮もこの事について、弟子の四条金吾に御書の中で以下の様に語りかけてます。
「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利衰毀誉称譏苦楽なり、をを心は利あるによろこばずをとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり」(四条金吾殿御返事(八風抄))
ここでは賢人とは、利衰毀誉称譏苦楽という自身の心の中に吹き荒れる風に侵されない人を指す事だと言い、そういう賢人を天は必ず守ると述べています。
私の体験は先で少し紹介しましたが、ここ二十年近く生きて来る中で実感した事は、どの様な苦境の中にあっても、人生を投げず捨てず、淡々と自分自身を信じて生き抜いて行けば、それは後に自分の人生の中で、必ず意味ある事として姿を現わしてくるという事でした。
そしてその為に「自分自身の存在を信じ仰ぐ事」こそが、実は信仰にとって一番大事な事ではないでしょうか。
今の私はその様に感じています。
日蓮の御書も、様々な世間の良書も、今の私にとってはそういう事を裏付ける資料であって、そこにある言葉などは呪文でも金科玉条の言葉(御金言)でも無いのです。
だから創価学会の信心も、日蓮正宗の教えも、どの様な宗教にも今の私は依存する必要を感じていません。
それが今の私の信仰観なのです。