自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

人類が平和に生きていくために

アメリカとイスラエルの攻撃に端を発した中東情勢は、未だに先行きが見えない状況です。ことイランのホルムズ海峡封鎖によって、世界的にはかなりのダメージが今後予想されます。

しかし人類は何時までこの様な愚行を続けていくのでしょうか。

戦争という行為は、表向きは国家の外交の延長線上にあり、交渉が決裂状態となった時に発生します。

今回のイランとアメリカ、そしてイスラエルの戦争では、イランの核開発疑惑があって起きています。もしイランが核兵器を持つに至った場合、アメリカもイスラエルもイランに対して、要は抑えが効かなくなる事を恐れての事なのでしょう。特にイスラエルとしては、アラブの盟主であるイランが核兵器を保有した場合、彼らの国家存続の危機と考えているのかもしれません。そしてアメリカはイスラエルに引き込まれる形で、共同作戦を取っているものと思われます。何しろアメリカではユダヤのロビイストも活発に動いており、ユダヤ民族はアメリカ政府に大きな影響力を持っていますからね。

さて、これは飽くまでも表向きな話であって、このイランとアメリカ、そしてイスラエルの紛争には、恐らく国家の枠以外にも様々な思惑があって起きている事なんでしょう。過去にアメリカのルーズベルト大統領は「この世界で起きている事には偶然はなく、全ては必然的に起こされている(要旨)」と発言していましたが、恐らく今の世界には、この段階でイランと事を構えるべき目的を持つ勢力もあり、またそこには当然、アメリカのトランプ大統領の中国に対する思惑というのも絡んでの事だと思われます。

要は表向きは国家間の外交の動きの結果として紛争という形が現れていますが、その裏には、見える事、見えない事が様々絡み合っているという事だと私は捉えています。

◆現在の民主主義の体制

さて、ここで少し話題を変えて、今の人類社会の中にある「民主主義」について少し書かせてもらいます。

「民主主義」ですが、その基本となっているのは「平等」という概念です。つまり国民は皆平等に権利を持っているという事ですね。この権利の大きなものは「基本的人権」となりますが、その先には様々権利を人々は「平等」に持ち合わせているという考え方です。

欧米が何故この「民主主義」を創り出し、社会の中でこの制度を根付かせる事が出来たのか。実はそこには「キリスト教」という宗教が大きな役割を持っていました。

これを要約して言えば「人はみな神の下で平等である」という概念です。

そして幕末の日本にも、この「民主主義」というのは流れ込んできました。そこで日本はこの民主主義の基本である「平等」という概念を国民の中に根付かせるために、「天皇」を「現人神」として位置づけをしました。明治政府が大日本帝国憲法の初めに以下の条文を載せたのは、そういう理由があっての事だと言います。

第一章 天皇
第一條
大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二條
皇位ハ皇室典範ノ定ムル所󠄁ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス
第三條
天皇ハ神聖󠄁ニシテ侵󠄁スヘカラス

つまり明治政府は西欧でいう「神」の位置に「天皇」を置く事で、その下で国民は皆平等であるという解釈を日本の中で作り上げ、そして明治政府は日本の中に「民主主義」の概念を取り入れたというのです。

この辺りについては、歴史学者の井沢元彦氏の受け売りなんですけどね。
(以下、動画を参照)

www.youtube.com

ここで私が言いたい事は「民主主義は大事だ」という事ではなく、今の人類社会の根底にあるのは「キリスト教」に基づく西欧思想が根本になっているという事なのです。

この西欧思想を基本とした民主主義以前には、権力闘争は常に国内で戦争(内戦)を行い、そこでの勝者が権力を掌握し、国政を握る事をしていました。

この民主主義体制を取る事で、人類社会の中では「国家の中での武力闘争」はかなり減らす事が出来ました。日本においても「戦国時代」以降、戊辰戦争を終えた後には、国内の内戦は起きていません。

ただ世界を見回すと、いまだ内戦は主に「後進国(発展途上国)」では、未だに民主主義が根付きもせず、内戦が起きて居たりします。

また今の人類社会では国家間の紛争は未だ絶える事はありません。

これは何故なんでしょうか?

実は私はここに、いま人類がもう一歩自分たちの存在意義について、理解を深める段階に来ている考えているのです。

今の人類社会は間違いなく欧米のキリスト教を基本とした思想に基づいています。そこには先に挙げたように「神の下での平等感」は根付いてきましたが、各個人はというと、それは17世紀のフランスの哲学者であるデカルトが自著の「方法序説」で語った「我思う故に我在り」という、個人は個々に分離された存在という事になっています。

各個人はそれぞれに独立、自立した存在であり、他者と自分は同じ環境を生きて入るが、それぞれが別の人格をもった存在なのである。そしてこの個々の人格は何者にも侵されない存在だ。

言葉にするのは少し難しいのですが、こういう事なのではないでしょうか。

本来、人の心とは他者の痛みを感じ、理解する働きと謂うのを持ち合わせてはいますが、現実の社会で生き抜くためには、実は自分と他者を切り離してそれぞれが完全独立した存在だと信じています。これはいわゆる「エゴ(自我)」を何者にも替えがたい確かな存在だと信じているからでしょう。

しかしこの様な根本的な考え方に基づく民主主義も二百年近く経過した現在、実は限界に達してきているのではありませんか?

ここは単に「神の下の平等」という考え方では、実は超えることが出来ない状況になってきていると、私には思えてならないのです。

◆仏教の無我論について

私はこの現代文明の閉塞感を乗り越えるヒントは、やはり仏教思想にあると思うのです。

仏教では他者や環境と隔絶した「自我」というのは存在しないという考え方があります。これは「無我思想」というものです。

これは例えば以前にミリンダ王の対話というのを紹介しましたが、人は全て「縁起」によって存在するという考え方です。

tango-saito.hateblo.jp

このミリンダ王とナーガセーナ長老との対話の中で、「自我」は何処にあるのかという質問に対して、ナーガセーナ長老は例えば「車」を例にあげ、車輪を指して車というのか、車輪の上にある台車をもって「車」というのか、という話しをして、私達が「車」と呼んでいるのは、全ての部品が組みあがった上に存在する概念である事を説明しました。

つまり特定の部品を持って車は出来ている訳ではなく、全ての組み合わせ(縁)の上に成り立つものであり、人の「自我」にしても、様々な肉体の要素の上に「縁起」として成り立つ存在であるという事を示したのです。

「自我」の本体は独立した存在ではなく、体の様々な器官の縁起の上で成り立つのが「自我」だというのです。

◆法華経の思想性

しかしその縁起の上に成り立つ「自我」そのものについて、このナーガセーナ長老の説話の中でも説かれていません。仏教の中で、その事について説かれているのが法華経だと私は考えています。

法華経では久遠実成の釈尊を説き明かし、その久遠実成の釈尊とは、時々で様々な姿をもってこの世界に顕れて来ると説き、本生潭(ジャータカ伝説)で言う燃燈仏として現れた時には、その弟子である釈迦の前世の姿であった儒童梵士も久遠実成の釈尊であった事を明かします。

つまり師匠の仏も、弟子の凡夫も、共に久遠実成の釈尊だったと言うのです。

そして中国の天台大師は、この法華経の教理の中から九識論を展開し、そこでは自我「末那識」というのは過去から続く記憶の集合体「阿頼耶識」を通して、久遠実成の釈尊で示された心の本源が錯誤した識(心の働き)である事を明かしました。

つまり法華経の世界観では、この世界は「縁起」の上に存在すると共に、個々の「自我」というのも、実は共通の心の本源が錯誤の中で作り出された心の働きだというのです。

こうなると他者を傷つける事とは自身を傷つける事にも通じますし、他者を卑下する事は翻り自分自身を卑下する事にも通じる事になるでしょう。

だから「自我(エゴ)」についても、考え方を改めなければならないし、その改めた先で、人類の社会制度も考え直さなければならないという事にもなるでしょう。

この事について、日蓮の御書の中には的確な表現がありました。

「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
(生死一大事血脈抄)

ここで日蓮は自身の門下に対する言葉として語りかけていますが、これは全人類にとっても同じ事を述べていると私は考えます。

つまり自分だとか他人だとかという「区別」の心ではなく、水と魚の様に互いが互いを必要としている姿をしっかりと理解して、その上で異体同心で社会を営む事を南無妙法蓮華経を唱えるという意義なんだと、私はこの言葉を理解しました。

南無妙法蓮華経と唱える事は、何もマントラ(呪文)を唱える事として述べている訳ではなく、法華経に説かれた意義をしっかりと理解して、その考え方に帰命して生きて行く事が、実はお題目を唱えるという事なのではないでしょうか。

もちろん、この生死一大事血脈抄という御書は、後世の偽作かもしれませんが、私はこの日蓮の言葉の中に、実は大きなヒントがあると感じたので、ここで少し紹介をさせて頂きました。

創価学会や日蓮正宗では「広宣流布」という言葉を、それぞれ自分達の教団が拡大する事を述べていますが、実は法華経にある「広宣流布」とは、この法華経に説かれた意義をどの様に社会の中に展開し、根付かせていく事なのかを真剣に考える思想運動の事を指していると私は考えています。

であれば今の世界情勢を考えてみた時、もっと真剣に頭を使い、智慧を捻り考えなければならないのではありませんか?

世界平和という言葉を言うのは簡単です。

しかし世界平和とは、呪文の様に唱えた処で実現できる事ではありません。その為の人間の本来あるべき姿をしっかりと理解して、この人類社会の中で、人々の中にどの様にその思想性を展開し根付かせていくのか、そこをしっかり認識をしていかないと実現は難しいのではないでしょうか。