
さて、死に体する考察を続けます。
ところで皆さんは、近年の世界の動きがおかしいと感じる事はありませんか?
私は今年に入ってから、そのおかしな傾向が世界的に顕著になって来ている事を感じています。日本国内の政治の動きもそうですが、世界的な動きがこれまでとは異なる動きをしているのがとても気になるのです。
顕著な例で見れば、アメリカの動きは明らかにおかしいと感じています。
今年の年初にベネズエラの大統領の逮捕、また今回のイラン紛争では早々に指導者のハメネイ師と政権幹部を殺害、その後継者のモジタバ師も殺害。また革命防衛隊の幹部も殺害しています。
従来の戦争のルールから言えば、相手国の国家元首をいきなり殺害するという事はありえません。何故なら相手国の統制が困難となり、戦争交渉も困難になってしまうからです。しかしアメリカはイランへの戦争でいきなり相手国の指導者を殺害したという事は、そもそも交渉をする気がなく、相手をせん滅する事を考えているとしか思えません。
これは世界の流れが、その様な方向へシフトした事を表しているのでしょうか。
またアメリカはイランとの戦争の一方で、月への友人飛行計画も実施していますが、これも過去の事から考えると異例に思えます。何故なら戦争は経済的に負担が大きな事なので、一般的に、戦争当事国が戦争をやる一方で別方面での国家的事業を同時に進めるという事も、過去にあまり類例が見ない事です。
この様な状況を考えてみると、今の人類社会は変革期を迎えているようですが、それはけして好ましい方向への動いてはいない様です。
これは今の人類社会、ひいては現文明の存続にも関わるような出来事にも思えますが、それを是正する事は、今の人類社会の構造上、恐らく不可能と言っても良いのではないか、私はその様に感じてなりません。そしてこの是正するにも人類が自分たちの本当の姿や、この地球上での人類の立ち位置を正しく認識し理解する事が大前提になると思うのですが、その為にも人類は死についての認識を改める必要があるでしょう。
要は死という姿を通して、自分達は如何なる存在なのか。そこを理解する事から、より良い変化(文明の方向性の是正)は可能になると私は考えています。
◆死の状態について
人はよく「死んだら終わりで、その後は何もない」と言ったり、またある人は「死んでも人は霊魂として残る」とか言いますが、ここで死の状態について考えてみたいと思います。
現代の科学では、人の心とは大脳の中で起きている電気信号の産物だ考えられています。だから人が死に、脳が機能停止をしたら意識も喪失し、その後には何も残らないと多くの人は建前として信じています。
かく言う私もこれまで全身麻酔を2回ほど受けた事がありますが、この全身麻酔も薬剤で脳の中の電気信号の伝達を阻害する事で、人を強制的に無意識状態に持っていきます。私が全身麻酔を受けた時も、看護師から「これから眠くなりますからね」と言われて、自分の意識が一瞬で数時間の時間がとんでしまいました。「麻酔が掛るとはどんな事なんだろう」なんて考えているうちに、あっという間に「起きてください」なんて起こされてしまったという感じです。
この経験からすれば、確かに脳機能が停止をしたら、それこそ「無」になると言うのも理解できますが、その一方で昨今欧米で盛んに研究されてきた「NDE(臨死体験学)」では、多くの死後の臨死体験が報告されており、中には完全に心停止・脳機能消失の中での体験も報告されています。
そしてこのNDEでは、脳が完全に機能停止をした後でも、生きていると同等な活発な精神活動を経験していた事が、多数報告されています。もちろん臨死体験の中には脳の活動が完全停止をしていない中での経験もありますが、例えば故人となった木内鶴彦氏の体験や、アメリカの脳外科医であるエベン・アレクサンダー氏の様に、医学的にも脳の活動が停止している事を確認された中での体験もあるのです。
また別件ですが輪廻転生の体験談でもあるように、世界の中で子供たちが亡くなった他人に記憶を持って生まれて来る事も報告されている例もあり、これなどは単に人の精神活動が脳という臓器に閉じられた物理的な活動では説明がつくものではありません。
本来、科学ではこれらの事を、もっと真剣に捉えて研究対象として掘り下げられるべき事なのですが、どうも今の人類文明の科学者達は、そういった事は不得手なのか、この二十一世紀の現在に於いても、この様な話題は「オカルト」「都市伝説の一つ」として扱わられており、真面目な研究対象とはなっていません。
◆死は存在しない
私は全てが無となり消え去るという「死」は存在しないと考えています。
確かに人には寿命もあるし、歳を重ねれば肉体的にも機能低下し、心の働きも変化をしてきます。そしてその先では老いや、それに伴う肉体的な機能が働かなくなる事から、死という姿を取る事もありますし、これは老いばかりではなく事故や病気など、様々な事により人は死を迎えます。
しかし死を迎えるという事は、どこまで行っても外面的な事であり、人の心の内面的な事を考えてみたら、そこには厳然と精神活動としての心の働きは残り動き続けるのでしょう。肉体の脳が機能を停止して、五感の働きをする肉体の各器官、各臓器が機能を止めても、人の心に備わる感覚機能(識)は消えることは無いし、それは死を越えても働き続けていく。
この事は多くの臨死体験者の経験から、容易に推し量る事が出来る事なのです。
先に紹介した木内鶴彦氏は、臨終宣告を受けた後の家族の動きを見聞きしていましたし、そこから時間の概念の無い世界を経験してきました。またアレクサンダー・エベン氏は、それによって自分自身がそれまで知る事が無かった実の妹と出会い、助言を受けていました。
これ以外にも、実は既に亡くなり自分も知らない親戚が出て来たり、自身が病院に運び込まれた後、医師たちの賢明な救命作業を空中から観察していたという体験も多くあります。
そこから考えられる事は、人は何らかの事で肉体的に機能停止し、死を迎えた様に見えてみても、実はその個人の内面では周囲の事をしっかりと感じ、見聞きして思惟しているという事が見て取れるのです。
その意味からも「死は存在しない」という事を、私は考えています。
◆死に際しての問題点
しかしいくら自分自身の内面の心の働きが永続する、そこから死は存在しないと言ったとしても、死に際して起きる様々な問題は何も解決しません。
死に際しての問題点を表現する説話として、仏教では「奪衣婆」という存在が説かれています。
「奪衣婆」とは衣を奪う老婆の事で、これは三途の川の入り口にいて、死んだ人たちの衣服を全てはぎ取ると言われていますが、これは生前に持っていた外面的な姿、これは見た目の姿であり服装であり、あるいは社会的な立場や名誉、そして経済的な優位性など、そういった自分自身がこの人生の中で身に着けて来た事は、全て意味を為さないという事を表現しています。
一言で言ってしまえば、死んでしまえば皆同じという事です。
彼の「日本の歴史上、類を見ない大出世」した人物の豊臣秀吉も、この世界で得た地位や名誉、また多くの富や自分の家族でさえ、死に際して持ち越す事は出来ませんでした。
幾ら「太閤」「太政大臣」という地位を持ちえたにしても、死に際しては貧農の人物と何ら変わる事なく、この世界で得たモノは全て捨て去って行くしか無かったのです。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな
難波のことも 夢のまた夢
これは豊臣秀吉の辞世の句ですが、ここで「難波のこと」という様に、豊臣秀吉が駆け抜けた人生もまた夢の様なものではかない事であったという事なのでしょう。
私達は眠りに入ると夢を見ます。
起きた時に夢の内容を潰さに覚えている人は少ないと思いますが、医学的には人は必ず寝ている時には夢を見ているそうです。しかし人は夢の中で得たモノを、起きた後に持ち合わせる人は誰もいません。これは当たり前の事です。
それと同じ様に私達が人生の中で得た社会的な事、経済的な事、また人間関係(これは身内家族を含めて)などは、結果として人生八十年と昨今は言われていますが、それを越えて持ち越せるモノは何一つ無いのです。
人はまずこの冷徹とも言えるこの事実について、真剣に考えなければならないのです。
今回はここまでとして、まだまだこの話は続けます。