自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

死についての現段階の考察③

さて、死に対する考察も3回目となります。

私が若い頃、自分自身が老いていき、死を考えるまでにはまだまだ時間は沢山あり、そんな事よりも今を生きる事を精一杯やろう。なんて考えていましたが、あっと言う間に還暦間近となり、職場に於いても「ロートル」の世代になってしまいました。

気が付けば職場の上長も年下が多くいて。仕事も人生も漸く何かが解かり始めてきたのに、もう引退し第二の人生を考えなければならない年齢です。周りを見ると定年退職者もいれば、若い時にお世話になった人達の中には鬼籍に入ってしまった人達も多くなってきました。

人生の時間というのは、過ぎてしまえばとても短く限りあるものなんですね。

◆死を超えて持てるもの

さて、前回の記事では人は平等に死を迎え、その死という現実の前では如何なるものも、持って越える事は出来ないと言いましたが、そこでも持ち越えていけるものがあります。

それは経験(記憶)であり、その経験により身につけた性分(性質・性格)です。要は心の内面的に持つ経験や豊かさと言っても良いでしょう。恐らくそれが、人が生死を超えて持っていける大事なモノなのでしょう。

あるスピリチュアルな人たちの中では、この人生の目的について「経験をする事」だと言う言葉があります。

人はこの世界に産まれてくる事に「目的」があるとは、多くの人は考えていません。中には宗教団体の中で教えられ、宗教的な自覚を使命とする人も居たり、その他にも人生の困難を乗り越えた先に、様々な自覚を得て、それこそ自分がこの世界に生まれてきた使命だと言う人もいます。しかし多くの人にとっては、自分がこの世界に生まれてきた理由や目的について考える事は無いでしょう。

そもそも、そんな事を考える人自体、数が少ないでしょう。

本来、人はこの事に目を向けると、生き方も変わってくるであろうし、物事の捉え方や思考も変化して来るはずです。しかし現実には人は生活の上で死を実感する事は殆どありませんし、日々目の前の事に心を奪われてしまうので考える事はありません。

また知識としてこの事の必要性を感じたとしても、それだけで人生が変わることはありません。要は知識というレベルでは無く、生きていく中の実感として感じない限り、人の行動様式は変化しないのです。

◆この世界の実像について

私達が生きるこの世界について、鎌倉時代の僧の日蓮は以下の様に述べています。

「此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり、六道の中に二十五有と申すろうをかまへて一切衆生を入るるのみならず妻子と申すほだしをうち父母主君と申すあみをそらにはり貪瞋癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす、但あくのさかなのみをすすめて三悪道の大地に伏臥せしむ、たまたま善の心あれば障碍をなす、」(兄弟抄)

これは仏教の視点から、この世界の有様を表現した言葉だと思います。

これは以前にも紹介した御書の一文ですが、改めて説明すると、この世界は第六天の魔王の領土だと言うのです。ここで第六天の魔王と呼んでいますが、これは他化自在天という天界の王を言います。ここで興味深いのが、この世界を牛耳っているのが天界の王であるという視点です。天界とは歓喜や喜びの世界を言いますが、この世界はその境涯の一番の王によって仕切られていると仏教では考えられています。

また他化自在天とは、他者を自在に操る事の出来る事で歓喜を得る王であり、戦国時代では織田信長が第六天の魔王と揶揄されていましたが、他者を自分の意に従え動かす事に喜びを得る境涯を他化自在天は指しています。

そして娑婆世界(この現実の世界)は、その様な境涯によって支配されている場所だと言います。そして人々は無始依頼、この他化自在天の眷属だと言うのです。眷属とは従い尽す存在だという意味です。

またここで「二十五有」とありますが、簡単に言えばこれは六道輪廻しながら、この人生を繰り返すという事であり、地獄から天界という、感情の赴くままで娑婆世界で生きる事に何ら疑問を持たない様を「ろうをかまへて一切衆生を入る」と喩え、その為に父母や主君、妻や子といった人間関係や家族のしがらみの中で、人の心を縛り付けているというのです。

これを読んだ時にふと私は思いました。

私の生き方も当にこの生き方であり、家族を養うため、また仕事場の仲間を助ける為と、刹那的な判断をしてしまう事は良く在る事だと思います。

現に自分の人生の事や社会の事を考えて行動を起こす事で、結果として家族を苦しめたり、職場や人間関係を壊す様な事は今の私には出来ません。これはまさに「ろうをかまえ」の中から飛び出す事が出来ない事と同じですし、こういう人は多くいると思うのです。

ここまでは自分の周囲の環境面の話ですが、それだけではありません。

次に「貪瞋癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす」とありますが、ここでいう貪瞋痴とは三毒とも呼ばれ、その様を人が正常な思考を出来なくなる「酒」に譬えて述べています。

幾ら正論に聞こえても、またそれが社会の為になると解っていても、人の心の中には「貪(貪り)」という有形無形のものへの欲望があり、「瞋(怒り)」という自身を否定された時に感じる怒りがあり、「痴(愚か)」という真実に気付かない無知な姿勢を持っています。そして人の思考というのは常にこの三毒に侵され正常な判断をする事が難しい状況だという事を、ここでは酒に酔う姿に譬え指摘しています。

そして「但あくのさかなのみをすすめて三悪道の大地に伏臥せしむ」とありますが、人々は目の前の生きる糧を得る為に、この様な思考に常に縛り付けられているという事を、この兄弟抄の一文は指し示しているのです。

◆この世界と自分を理解する為に

ここで私は「死」を通して、一人でも多くの人が、自分達がこの世界に生を受けた意味を理解すべき時に来ていると感じるのです。

果たして私達は、日蓮が言ったように他化自在天に縛り付けられ、動かされる様な生き方をしていて良いのか。他化自在天が与えるものとは、「死」を越えて持ち越せないモノばかりでは無いでしょうか。

私は現在に於いて、この他化自在天の姿を如実に顕しているのは「資本」であり「お金」であると思います。何故ならお金を持ち、巨大資本となると、人々は生きる為にそこに傅くようになってしまうのが、今の世界の現実です。

自分が社会で生活するにも、お金が必要。
家族を養う為にも、お金が必要。
そして老後の生活や、自分が死んだ後にも何かとお金が必要。

だから人はお金の為に、平気で良心をも売り渡す事も出来る生き物でもあるのです。
何しろ人類社会の中では、お金が無いと正直、自由に生きて行く事はとても困難です。

そしてその「お金」が一か所に集まり、「資本」と呼ばれる様になってくると、この「資本」は個人の思惑を離れて独自に動き出し、周囲に群がる人たちを動かし始めます。

以前に、先日亡くなった元傭兵でタレントのテレンス・リー氏が言っていました。

「全ての戦争とは資本が起こす事だ(要旨)」

今の世界で、各地で起きている戦争とは、こういう構造を持ち合わせているのです。

私達はけして「死」を迎えたからとて、そこで終わる存在ではありません。人がどの様に考えようと、何を言おうと、死を越えた先でも消え去る様な儚い存在では無いのです。

そんな存在の私達が、何故この世の中に生れて来たのか。そこには「経験」を積んでいくという目的があるからだと私は信じています。ここで敢えて「信じる」という言葉を使うのは、この事を客観的にエビデンスを以って証明するのは、現在の科学レベルでは不可能だからです。

もしかしたら、この先に科学が進歩する中で、これらの事は証明される事はあるかもしれませんが、少なくとも即物的な視点のみ重要視する現在の文明では、これを解明する事は出来ないでしょう。

またこの事は、一人ひとりが人生の経験の中で、理解すべき事であり、人から言われて理解出来る事でもありませんし、この考え方は個人の自覚の上に成り立つ事であって、人から言われ、指摘されても到底理解出来る事ではありませんし、恐らく多くの人達は反発感すら覚える事でしょう。

だから完全に理解する必要はありませんが、生活の中で少しでも一人ひとりの心の中に、この様な思考が芽生える事が、今はとても大事な時だと私は考えていますし、その切っ掛けとして「死」という事実が、きわめて大事な事だと私は考えています。

まあ少し遅きに逸した感もあるんですけどね。

これが私の「死」についての現段階の考察です。