
最近、このブログでは私の思索している事を、主に書かせてもらってましたが、書くべきことは他にもあるわけで、今回は日蓮正宗の歴史的な事について、すこし書いていきます。
私が創価学会を離れた理由には、こういった創価学会や日蓮正宗の中で、会員や信徒向けに語られる事のない影の歴史的な出来事を知ると言う事もありました。
私が若い頃に先輩から教わった言葉に「創価学会は新興宗教ではない」という言葉と「富士の清流七百年」、要は日蓮大聖人から連綿と受け継がれてきた教えを信じているのが創価学会なのだという言葉がありました。つまりそもそも創価学会とは日蓮正宗の信徒団体だと言っていたのです。
それが第二次宗門問題で争うようになり、創価学会では「自分たちこそが本当の日蓮正宗で、今の宗門は寺族や代々坊主に乗っ取られている」として、主に男子部の創価班広宣部が、その抗争の前面に立ってきたのです。
そして私もその一員として、法華講や妙観講、古刹寺院の所化や顕正会といった組織とバチバチやり合ってきました。
ただこの日蓮正宗の歴史を知ると言う事は、実は創価学会の中にあった疑念を理解するという事にも通じてくるのです。
結果、それもあり私は創価学会を離れる事にもなりました。
前回は日蓮門下の中の「五一相対」について触れましたが、今回は日蓮門下の日興門流の中で起きた、蓮蔵坊事件について取り上げてみたいと思います。
◆蓮蔵坊事件について
私が広宣部で活動していた頃、ある日蓮正宗寺院の法華講の青年部長が、創価学会の男子部にちょっかいをかけてきて、その対応をした事がありました。そこでは法華講の青年部長の他に講頭も来ていて、相手はやる気満々でした。要は創価学会の邪義を破折してやろう、男子部員の前で創価学会の幹部を叩いて赤っ恥をかかせて失望させてやろうと考えていたようです。
そこで私は対論の題材として「蓮蔵坊事件」を提案すると、法華講側では「蓮蔵坊事件を知っているのか」となり、「それだったら話を止めよう」なんて言い出してきたのです。
この時私はこの題材を引っ込めて、結果としてこの法華講の連中は去っていきました。
そこから見ても、この蓮蔵坊事件というのは、日蓮正宗にとってもかなりインパクトがある話題である事が解るというものです。
◆蓮蔵坊事件までの経緯
大石寺とは、今でこそ日蓮正宗総本山として、かつては創価学会の信徒たちも従えた中心地でもあり、それなりの威容を整えた寺院となっていますが、日蓮正宗が「第三祖」としている日目師が亡くなった頃には、大石寺には蓮蔵坊という坊舎が一つあるだけでした
この辺りを知るには、やはり大石寺開山の日興師の歴史を知る必要があります。
日興師は身延離山した時、富士郡上野村の地頭、南条時光は日興師に自領の大石が原を寄進し、一族の協力を得て取り敢えず宿坊(白蓮坊)を建立して迎え入れたと言います。これは正応三年(1290年)、日興師が四十四歳の事でした。
やがてこの地に日興師の高弟達は坊舎を次々と建立し、日華師は寂日坊、日目師は蓮蔵坊、日秀師は理境坊、日仙師は上蓮坊、日乗師は蓮仙坊を建立して行ったのです。

永仁六年(1298年)、日興師が五十二歳の時に隣村の北山村の地頭、石河孫三郎能忠からの招きに応じて、北山の重須の地に移り住みました。そして正慶二年(1333年)二月七日に八十八歳で没するまで、三十六年の間、この重須寺(現在の北山本門寺)で寺容の整備と弟子の育成に心血を注いで行ったのです。
日興師は大石が原の地には約八年居たと言われていますが、その間に彼は「本尊堂」や「御影堂」は作っていません。これはおそらく経済的な理由によると言われています。
大石が原の日興師は、重須に移る直前に六人の高弟を定めました。これは本六と呼ばれ、日華・日目・日秀・日禅・日仙・日乗の六人でした。恐らくこれは師匠の日蓮が亡くなる際に六老僧を定めましたが、それに習っての事と言われています。ただし日興師は後の亡くなる前にもまた別の六人の高弟を定めていて、そちらは新六と呼ばれていますが、何故、日興師は重須に移る時に敢えて六人の高弟を定めたのか、その理由は明らかにされていません。一説には日興師はこの時に病を得てしまい、死を覚悟する程の状況だったので六人の高弟を定めたのではないかと言われても居ますが、実はその理由は明らかにされていません。
この高弟六人を定めた時、日興師は五人(日華・日目・日秀・日禅・日仙)には、日蓮直筆の本尊を与え、日乗には日興直筆の本尊を与えています。そして彼ら六人にはそれぞれ任地を指示して、独立を促しました。
後世の学者はこの事を、日興師が大石の寺を事実上解散すると宣言したと見る向きもあります。
その後、日興師は当時としては非常に長寿だったので、彼が没する前には日華・日秀・日禅の三人は日興師に先立ち亡くなってしまい、日乗は小泉の法華堂(現在の駿河久遠寺)に移り住み、大石が原の坊舎には日目と日仙の二人のみという状況だったのです。
その日仙も日興師が亡くなってから一年後の建武元年(1334年)2月15日に四国の讃岐国高瀬に出発して再び戻る事はありませんでした。
しかし南条時光の姉を母に持つ日目だけは、地縁の関係から自坊の蓮蔵坊をその本拠として日興から支持された東国に教勢を張っていました。