自燈明・法燈明のつづり

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蓮蔵坊事件について③

さて前回では日目の天奏、その高弟である日郷について、また新六として日興師の高弟の位置にあった大石寺四代の日道について紹介してきました。

ここまでの説明で、日興師には日蓮の高弟の六老僧に習い、六人の高弟がいましたが、何故かこの六人の高弟には重須に居を移す前に定めた「本六」と、亡くなる直前に定めた「新六」がありました。

大石寺の三代と言われている日目は本六の一人であり、第四代の日道は新六の一人に当たります。そしてその三代と言われていた日目の高弟の筆頭に居たのが日郷であり、これから話しをする蓮蔵坊事件とは、この本六の一人である日目の高弟と、新六の一人である日道との間に起きた諍いの事を言います。

共に日興門流の中にあり、それなりに中核に居た彼らは何故争っていったのでしょうか。

◆日道の立場について

さて、日道は日興師が晩年に定めた六人の高弟の一人であり、本六の日目の甥として日興師の門下の中ではそれなりに優遇もされていました。そして新六の中の序列では日興師から重須を継承した日代、日澄に次ぐ位置でした。またこの当時、日澄は既に亡くなっていたことから、序列から見たら重須寺を継ぐ立場にあったのは日道であり、重須の寺(重須本門寺)を日道が受けてもおかしくなかったのです。しかし実際には日道の二歳後輩である日妙が地頭の実忠の後押しを受けて重須寺の貫首となりました。

これらの事から、当時の日道の心中はけして穏やかな事では無かったと思われます。

またこれだけではありません。実はこの当時、建武二年(1335年)の五月には、日道の門下であり愛弟子であった日叡が日道の下を去り、当時安房で活躍していた日郷を慕い、その門人になってしまったのです。

これについて「日叡縁起」によれば、日叡は九州日向の領主の弟で、経済的にはかなり恵まれていたと言われています。その上、生来から優れた才能の持ち主と言われており、最初は京都の本国寺の日能の門下になりましたがあきたらず、「大石の寺」を訪ねて日仙の下で学んでいたと言います。しかし日仙が四国の讃岐に下ってしまうと日仙と親交のあった重須の行泉坊の日道の下に師事してきたのです。しかし大石が原の蓮蔵坊にいた日郷という類稀な大人物が居るとの話を聞いて、矢も盾もたまらず建武二年に日道の下を去り、日郷の弟子となりました。そしてその後、日郷と日伝(保田妙本寺二代)に生涯を尽くしたと言われています。

改めて日道について見てみると、確かに日道は新六の一人として日興師の晩年の高弟の一人にはなっていましたが、その業績について、あまり見るべきものはありません。

日興師の御遺物配分では、新六の日代・日妙・日助はこの日興師の御遺物の配分に預かっていますが、日道はこの配分から外されています。この事は、実は日興師の晩年における日道の立ち位置を理解する上で、とても重大な事を示唆していると思われます。またここには日郷に対しての記録もあり、そこでは新六の日助よりも後輩の立場にありながら日郷には刀を配分されていました。

◆重須を飛び出した日道

重須では後輩が貫首となり、しかも愛弟子からも去られた日道は、永年住み慣れた重須の行泉坊を弟子の日運にゆずり、建武二年に従兄弟であった日行(後の大石寺五代)と共に重須を飛び出して南条家の持仏堂に移りました。移ったというと聞こえは良いのですが、要は転がり込んで行きました。

日道と従兄弟の日行は、共に南条家の血筋でしたので、この不遇の立場に置かれてしまった日道達を、上野村の一部の人達は同情し、しばしば日道や日行を訪れては酒を酌み交わし励まして居たと言われています。その内、そんな彼らが目をつけ始めたのが大石の寺にある蓮蔵坊でした。

蓮蔵坊とはそもそも南条家の一族であった日目に寄進したものであり、蓮蔵坊にいる日郷とその一門は謂わば余所者であるから、行き先が無くなり南条家の持仏堂に居る日道や日行が本来蓮蔵坊に入るべきで、日郷門下には出ていってもらったほうが良い。それが日道や日行周辺に集まった上野村の人達の思いとなって行きました。こうして建武二年の暮れ頃から、蓮蔵坊にいる日郷一門への嫌がらせが始まりました。

◆蓮蔵坊事件

この当時、日郷は安房方面の弘教に走っていましたが、蓮蔵坊にいる日郷門下への嫌がらせの事は、逐一報告されていました。

しかしこれを聞いた日郷は、くれぐれも理不尽な仕打ちに対して「狂慮」を起こしてはならないと制戒を定め、日道一派と争う姿勢はとりませんでした。この時の日郷の門下への制戒は、富士宗学要集の五巻に収められていますので、今でも確認する事が出来ます。

この日道周辺からの嫌がらせは続いていきましたが、日郷は彼らの要求、即ち「蓮蔵坊を明け渡せ」という事に応ずる理由はなかったので、馬耳東風の姿勢を取り続けました。しかし建武五年(1338年)の初頭には、日道一派は徒党を組んで蓮蔵坊に押し寄せ、気勢を上げて騒ぎ立てました。ついには日目が美濃の垂井で急逝した折に日郷に蓮蔵坊を譲ったと言うのであれば「譲状」を見せろと日郷に迫ってきたのです。

日道一派がこの様に横車を押して日郷に迫ったのも、日道が地頭の南条時綱は自分達の身内であり、味方につくとの計算があったようです。

この状況に南条時綱は頭を痛めました。それはもし日道を敵に回せば、南条一族の中に不協和音をもたらす事にもなりかねない、しかし日郷の立ち位置は何も間違いの無いので、日道寄りの立場を取れば、正道に反してしまう。

彼は地頭としてこの局面を打開する為の妥協点を模索し、検討をしてみましたが双方の円満解決は不可能であると判断し、遂に意を決して書状を発して日道一派の動きを抑え込むことにしました。それが建武五年に認められた「南条五郎左衛門尉平時綱寄進状」でした。

この書状では大石寺の東方は、南条時綱の所領である間、宰相阿闍梨(日郷)に寄進した場所であると記しました。

この当時、大石寺(大石の寺)では、東側の地には蓮蔵坊の他に蓮仙坊があり、道を挟んだ西側には白蓮坊、少輔坊、理境坊、上蓮坊がありました。しかし建武元年には蓮蔵坊のみ健在であり、他の坊舎は全て空き家の状態で荒れ果てて居たようです。書状による東方の安堵は即ち蓮蔵坊の安堵を示す内容だったのです。

この南条時綱の書状により、蓮蔵坊事件の第一弾はあっけなく幕を降ろすことになりました。この時、日郷は四十五歳、日道は五十五歳の時でした。

日道は建武元年には北山村の地頭石河孫三郎能忠に見放され、連蔵坊を巡る一連の騒動により建武五年には頼みの綱である南条時綱にも見捨てられてしまいました。

彼はかつて日興師の高弟として新六にも連なり、一時は権勢も振るっていましたが、これにより周囲からも冷視されるようになり、翌年の暦応二年(1339年)には大病を患ってしまい、やむなく弟子の日行を南条家の持仏堂に残し、自身は大杉山に籠る事になってしまったのです。そして二年後の暦応四年(1341年)に五十九歳で没したのです。享年五十九歳でした。

この蓮蔵坊を巡る争いはこれで一旦収拾した様に見えましたが、地頭の南条時綱が没した後、また再燃する事になりますので、この蓮蔵坊事件についてはもう少し続けていきます。